2008年7月30日水曜日

新しい書庫の追加のお知らせ

新しい書庫の追加のお知らせ 傑作(7)
2008/7/25(金) 午前 9:00竹島問題歴史 Yahoo!ブックマークに登録


 竹島は、日本の固有の領土であることは歴史的に明らかであるのに、韓国が現在不法占拠しています。日本政府の話し合いにも応じる気配はありません、それもそうです韓国には歴史的な根拠がありませんから。
 そこで、この問題にいい加減に決着をつけるべく竹島問題に関しての記事を史料を用いて詳細に書いていきたいと思います。ただ、時期は書面の史料をブログに打ち直しますので、どうしても不定期になってしまいますことをお許し下さい。概略としては、竹島問題の概要、韓国側の史料検討・批判、日本の文献の検討、竹島編入の経緯、戦後の竹島、国際法からの見地、最後に(最初方になるかもしれませんが)竹島に関する様々な話題(今までの竹島に関する記事の手直しも含む)をお送りしようかと思います。


日本政策・文化研究所

竹島問題の概略

竹島問題の概略 傑作(7)
2008/7/25(金) 午前 9:34竹島問題歴史 Yahoo!ブックマークに登録

 第一回目として、竹島問題の概略を説明しようと思います。

 竹島は島根県沖、韓国との間にある孤島です。

 竹島は北緯37度9分、東経131度55分に位置する、日本海に浮かぶ孤島です。西島と東島の二つの島と数十の岩礁からなり、総面積は0・23平方キロ。東京ドームの約5倍ぐらいの面積です。
 飲料水の確保が困難で、しかも四方は2島とも断崖(だんがい)絶壁。昔から人が住めない島でした。

 韓国では、竹島を独島(ドクト)と呼称していまして、その領有権を巡って、韓国との間で決着がついていません(実際は韓国に正当性はありません)。事の発端は、戦後に韓国政府の李承晩大統領が、一方的に日本海域に李承晩ラインを設定し、その範囲に竹島を含めたことから始まります。1905年2月22日、竹島は島根県に編入されましたが、そのライン内に竹島が入っていたからです。そして1954年9月2日、韓国政府は竹島の武力占拠を決定し、15日には灯台を設置して日本に通告しました。
 
 これに対して日本は国際裁判所への提訴を韓国政府に打診しましたが、韓国側はそれを拒否しました。以来、日韓基本条約の締結時にも、竹島についての解決は持ち越され、今日に至るまで日韓の間で竹島問題に対する話し合いがなされていません。

 そして、日本が竹島(独島)の領有権を主張すると「妄言」とされ、話し合い自体が拒否され、解決の道筋は示されずにいます。
 一方で韓国では、韓国固有の領土を日本が「悪意」で奪ったのであり、日本侵略の最初の犠牲が「独島」であり、日帝の朝鮮侵略のシンボルとされています。その島を奪還したという認識が韓国人にあります。でも実際は、日韓併合条約は諸外国から承認されているので国際法的に有効で合法なので、侵略であるとは言えません。また、韓国は1882年と1900年に鬱陵島の調査をした際に竹島を確認していません。竹島が島根県に編入された時、竹島はどこの国にも属さない無主の地ですから、日本が竹島を島根県に編入したことは、侵略行為とは言えません。
*関連記事 竹島編入についての韓国側の批判Q&A
(http://blogs.yahoo.co.jp/dune01220227/54257395.html)
 
 ロシアとの北方領土問題とは「意味」の異なる問題がここにあります。それ故にこそ、韓国のその歴史認識が虚構であることを白日の下に晒し、この竹島をわれわれ日本人が奪還することに意義があります。私は韓国側の主張には歴史の読み替え、解釈の齟齬が多すぎるように思えます。一つ一つ、それらをチェックして検証してみようと思います。

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竹島問題に関する韓国側の言い分

竹島問題に関する韓国側の言い分 傑作(5)
2008/7/26(土) 午前 11:50竹島問題歴史 Yahoo!ブックマークに登録


 では、韓国側の主張を打ち破るには相手がどのようなことを主張しているかを知る必要があります。
 韓国が竹島領有を主張する根拠として、1770年に書かれた『東国文献備考』の一篇「輿地考(よちこう)」の中に「輿地志に云う、鬱陵、于山、皆于山国の地。于山は則ち倭の所謂松島なり」という記述を挙げています。于山島(うさんとう)が日本の松島だと言うのです。*松島は、昔の日本での竹島の呼び名です。
 そして、韓国は于山島(国)を竹島であるとして、日本よりも先に領有していたと言いたいわけです。確かに于山島(国)の名は、古くは6世紀の『三国史記・新羅本紀』から出て、その他、『東国輿地勝覧』(1481年成立)や『世宗実録・地理志』(1454年成立)にも出てきます。
 一方で、日本は松江藩藩士の斎藤豊仙が著した「隠州視聴合記(いんしゅうしちょうごうき)」(1667年)を基本的に論拠としていたので、韓国側は自分たちの方が早く領有していると言いたい訳です。

 ただ、于山島=竹島(独島)との記述があるのは、『東国文献備考』だけです。そもそも韓国で、于山島は竹島であるという先入観が出来たのは、『東国文献備考』にある安龍福の供述の分註からです。しかし、『東国文献備考』での「竹島は于山島」とする干山島と、『世襲実録・地理志』や『東国興地勝覧』の于山島がそれと同一の島である証明は、なされていません。韓国が日本よりも先に竹島を領有していることを証明するためには、安龍福・証言以前に、于山島=竹島(独島)を認識していた事を示す必要があります。そうしないと、時期的に日本側の方が早くなります(安龍福が鬱陵島で日本に捕まったのは1693年)。ですが、それが出来ない以上韓国の主張は通りません。

 もっとも、これは安龍福の供述(『粛宗実録』に記述がある)又は東国文献備考にある安龍福の供述の分註が正しいことから出発しています。ですから、安龍福の供述が間違っている、デタラメであることを証明すれば韓国側の根拠は一気に崩れてきます(実際デタラメですので、その論拠を示します)。また、韓国が拠り所とする『東国文献備考』の「于山島=竹島(独島)」であることの記述は改竄されていまして、その改竄の過程も合わせて示します。
 
 そもそも、韓国が竹島を領有していたというなら、詳細な地図の一つも出てもよいものです。百歩引いて地図がなくても、竹島が2つの主島で構成されていることを示す史料がないことは韓国は竹島を(日本より先には)認識していないと見るのが自然です。韓国がいう竹島とする地図はすべて一島になっています。つまり、韓国は別の島の地図を竹島であると言い張っているだけです。ちなみに江戸時代の日本の竹島の地図は、詳細に二島からなっています。
 なので、韓国側の論拠を破るべく、(別記事になりますが)安龍福の供述のデタラメさと『東国文献備考』の改竄の過程、そのほか史料の検討をしていきたいと思います。

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ことこどく デタラメな安龍福の供述

ことこどく デタラメな安龍福の供述 傑作(7)
2008/7/26(土) 午後 0:21竹島問題歴史 Yahoo!ブックマークに登録


 安龍福証言の検討の前に、安龍福とは何者かを見て行きます。Wikipediaの文章が分かりやすかったので、それを記載します。
 水軍経験のある漁夫。1693年(元禄6年)不法に鬱陵島へ渡り漁労していた時、この島を開発していた日本人に遭遇し日本へ連行される。安龍福はその後朝鮮へ送還されるが、これが発端となり鬱陵島の領有をめぐる日朝間の外交問題に発展した(竹島一件)。三年後に自ら日本へ渡り、鬱陵島と于山島は朝鮮の領土だと訴える。しかし、帰国時朝鮮政府に捕らえられ、日本への不法渡航や訴訟事件を起こしたとして流罪となる。当時日本人の呼ぶ松島(現在の竹島)を于山島だと主張した最初の人物で、現在の竹島問題に発展している。

 まずは安龍福の証言が記録されている「粛宗実録」の内容を見てみます。
安龍福は、粛宗二十二年(1696年)五月に日本に密航しますが、その目的は表向きは、鬱陵島と于山島を朝鮮領として日本側に認める事。でも、于山島が松島であると言う彼の発言の真意は不法渡航の罪を免れるための虚言と考えるのが自然です。
 しかし、安龍福ら11人は、所期の目的も達せず、自力で帰還、八月二十九日のこと。九月乙亥(九月二日)、安龍福はソウルに連行され、国境問題を管轄する備辺司で推問されることになり、その時の供述調書が「粛宗実録」の粛宗二十二年九月戌寅条に採録されています。

 粛宗実録 巻三〇 二十二年九月戊寅

備辺司、推問安龍福等、龍福以為、渠本居東莱、為省母至蔚山、適逢僧雷憲等、
備説頃年往来欝陵島事、且言本島海物之豊富、雷憲等心利之、遂同乗船、
與寧海蒿工劉日夫等、倶発到本島、主山三峰高於三角、自南至北、為二日程、
自東至西亦然、山多雑木、鷹鳥猫倭船亦来泊、船人皆恐、渠倡言欝島本我境、
倭人何敢越境侵犯、汝等可共縛之、仍進船頭大喝、倭言吾等本住松島、偶因漁採出来、
今当還往本所、松島即子山島、此亦我國地、汝敢住此耶、遂拾良翌暁沱舟入子山島、
倭等方列釜煮魚膏、渠以杖撞破、大言叱之、倭等収聚載船、挙帆回去、渠仍乗船追趁、
埣偶狂飆漂到玉隠岐、島主問入来之故、渠言頃年吾入来此処、以鬱陵子山島等、
定以朝鮮地界、至有関白書契、而本国不有定式、今又侵犯我境、是何道理云、
爾則謂当転報伯耆州、而久不聞消息、渠不勝憤椀、乗船直向伯耆州、
仮称欝陵子山兩島監税将、使人通告、本島送人馬迎之、渠服青帖裏、着黒布笠、穿及鞋、
乗轎、諸人並乗馬、進往本州、渠興島主、対坐廳上、諸人並下坐中階、島主問何以入来、
答曰、前日以兩島事、受出書契、不啻明白、而対馬島主、奪取書契、中間偽造、
数遣差倭、非法横侵、吾将上疏関白、歴陳罪状、島主許之、遂使李仁成、構疏呈納、
島主之父、来懇伯耆州曰、若登此疏、吾子必重得罪死、請勿捧入、故不得禀定於関白、
而前日犯境倭十五人、摘発行罰、仍謂渠曰、兩島既属爾国之後、或有更為犯越者、
島主如或横侵、並作国書、定譯官入送、則当為重処、仍給糧、定差倭護送、
渠以帯去有幣、辞之云雷憲等諸人供辞略同、備辺司啓請、姑待後日、登対禀処、允之。

 大意は以下の通りです。
鬱陵島は、山には雑木鷹鳥猫が多く、倭もまた多く来泊していた。
(同行の)船人は皆恐れた。渠(かれ・安龍福)は「鬱陵島は朝鮮領だ。なぜ、倭人は何故、我が領土を侵犯するのか。おまえら皆縛ってしまうぞ」と、さらに、船の舳先に進んで大喝すると、

 倭人が吾等に言うには、「我々は、もともとは松島に住んでいて、たまたま漁採のために来ただけで、ちょうど今、本所(松島)に帰ろうとしているところだ。」と答えました。

 そこで私は「松島は即ち于山島だ。これも我が朝鮮の地だ。どうして住む事が出来よう」と言ってやりました。

 その翌暁、舟を曳いて于山島にはいると、倭人たちは釜を列ねて魚膏を煮ている最中でした。そこで私が杖で撞き破り、大声で叱りつけると、倭人たちはそそくさと辺りの物をまとめて船に載せ、帆を挙げて去っていきました。そこで追いかけたのですが、途中、狂風に遭って隠岐島に漂着しました。

 隠岐島では島主が入来の目的を尋ねるので、先に私がこの地に来たとき、鬱陵・于山等の島を朝鮮側の境界とする関白(=将軍)の書付があったはずだが、それが徹底していないようで、今また、我が朝鮮の境界を犯す者がいる。これはどうしたことなのか。鳥取藩に取り次ぐように求めましたが、返答はありませんでした。

 そこで憤激した私は、直ちに鳥取藩に向かい、「鬱陵于山両島監税」と仮称して、人を通じて鳥取藩に告げると、鳥取藩では人馬を迎えてくれました。私は駕籠に乗り、他の者は馬に乗って鳥取藩まで往きました。

 鳥取藩では、藩主と対座し、諸人は中階に控えておりました。鳥取藩主が「なぜ、参ったのか」と聞くので、「先に両島のことに関しては、書付を出したことは明白ではないか。それなのに、その書付を対馬藩の藩主が奪い取り、朝鮮政府と江戸幕府の間にあって偽りの使臣を送ってよこすのは言語道断である。私としては関白(=将軍)に上疏し、対馬藩の罪状を明白にしたいと思う。」と申しますと、鳥取藩が許すというので、ついに李仁成に書かせました。

 すると対馬藩主の父親がやってきて、ねんごろに鳥取藩主に語るには、「もし、この疏文が幕府に渡れば、我が子は必ず重い罪を得て死ぬ事になる。どうか幕府には提出しないで欲しい。」と言うので、幕府には上申しないで、その代わり先日、鬱陵島に渡っていた十五人は、捕らえられて処刑されました。

 そこで鳥取藩主が言うのには、「鬱陵島と于山島は既に朝鮮領となったのだから、再び越境する者があったり、対馬藩が無理な要求をしたりしてくれば、国書を作成し、訳官を送ってよこせば重く罰してやろう。」と言い、

 帰国に際しては食糧と護衛の使者をつけてやると言ってくれたのですが、差し障りがあると申しまして、お断り致しました。

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ことこどく デタラメな安龍福の供述(2)

ことこどく デタラメな安龍福の供述(2) 傑作(9)
2008/7/26(土) 午後 1:24竹島問題歴史 Yahoo!ブックマークに登録


 安龍福のでたらめな証言を検証します。前の記事(http://blogs.yahoo.co.jp/dune01220227/54222851.html)を参照してご覧下さい。

 (1)安龍福が鳥取藩に密航する4ヶ月ほど前の1696年(元禄九年)1月28日、既に幕府は鬱陵島への渡海を禁じています。それ故に、鬱陵島で鳥取藩の漁民達と遭遇することは不可能です。また、禁を犯して漁民達が処罰されたという記録もありません。

 (2)さらに、「倭船が多くいた」と証言しているが、鬱陵島に渡海する際に、鳥取藩から大谷家に発給する往来手形では、船は一艘であり、船頭以下21人の乗組員が認められていただけである。
 *朝鮮王朝の空島政策により無人島となっていたこともあって、1618年から80年ぐらいまで、江戸幕府は朝鮮領の鬱陵島を実効支配していた。それに伴い、幕府から鬱陵島を拝領していた米子藩は村川家と大谷家に開発をさせていた。

 (3)安龍福は、鬱陵島で遭遇した日本の漁民が、「我々は、もともと松島(=現在の竹島)に住んでいる」と言ったように証言しているが、松島では飲料水の確保も難しく、人の定住は困難です。安龍福は、松島がどのような島であるか、そんな事も知らないで、朝鮮領の于山島だと思いこんだと思われます。事実、安龍福は「舟を曳いて入った」とする于山島の描写でも、馬脚を現しています。

 (4)于山島では、「釜を列ねて魚膏を煮ていた」と供述していますが、大谷家と村川家が海驢から膏(あぶら)を採取していたのは、鬱陵島であり、岩礁に過ぎない松島(=現竹島)には、燃料となる薪がなく、釜を並べて魚膏を煮ることが出来る場所もありません。さらに舟を曳いて進める浜辺もない。于山島に渡った事もなく、松島もどのような島か知らないで、安龍福は「松島は于山島である。これも我が朝鮮の島である」と証言していたのです。

 (5)さらに、「翌暁、舟を曳いて于山島にはいると~」と言っている。しかし、鬱陵島から于山島(竹島)までは日本の船で一日は要します。それなのに安龍福は暁には舟を曳いて到着したと述べているという事は、彼が上陸した于山島は、鬱陵島に極近い島である必要があります。

 (6)安龍福の証言では、彼は日本人を蹴散らした事になっているます。しかし、日本の漁師船の乗組員は21人いる。そして鳥銃7丁と刀剣も所持しています。安龍福が武器を持った日本の漁民と鬱陵島で小競り合いを起こし、本当に杖で大釜を撞破したならば、日本漁師がこそこそと釜などを拾い集めて逃げ去るだろうか?という率直な疑問があります。さらに、安龍福自身が言っています。日本の漁民に遭遇した朝鮮の船人は、「皆、恐れた」と・・・。これでは、初めから勝負になりません。安龍福だけが恐れなかったとするのも、不自然です。

 (7)安龍福は、鳥取藩では藩主と対座し、そこに対馬藩主の父親が息子の命乞いに来た、と証言している。しかし、鳥取藩主・池田綱清は当時、参勤交代のため江戸にいたことは記録で明らかです。帰城したのは7月19日となっており、藩主と対座する機会はありません。父が命乞いをしたとされる対馬藩主・宗義倫は、その前々年の1694年(元禄七年)9月27日に24才の若さで病没していて、既に死去した人間(=宗義倫)の助命を願うというのは、いかにも不自然です。しかも、安龍福が鳥取藩に密航した時期には、義倫の父・宗義真は新藩主の後見役となり、参勤交代で江戸にいました。いずれも、安龍福とは対面できないのが明らかです。

 このように、安龍福は、その核心的な部分は、悉く偽りです。嘘八百を並べ立てています。

 そもそも、対馬藩は、幕府の命を受けて鬱陵島問題(=これは竹島一件といい、つまりは鬱陵島の領有問題)に関わったのであり、安龍福達を拿捕した対馬藩を通じて、朝鮮漁民達の越境を抗議させようとしていた時に、その命令を下した幕府自身が、安龍福に「鬱陵島と于山島は朝鮮領である」とする書付を与える事など有り得ません。

 それに安龍福が言う于山島は、人が住めて鬱陵島よりも頗る大きい島ですが、そのような島は、鬱陵島と隠岐島の間には存在しません。ましてや、日本と朝鮮の間で争われているのは鬱陵島であり、于山島は問題になっていません。日本と朝鮮の間では、鬱陵島の領有権も確定していない時期に、存在していない島=人が住めてすこぶる大きな「于山島」までが朝鮮領と認定される事などありません。

 安龍福は越境侵犯の生き証人として連れてこられてた犯罪人であったことを忘れてはいけません。犯罪人である安龍福が、日本でどのように発言しても、現実に越境侵犯証拠として朝鮮に送還された以上、幕府が犯罪人の安龍福に「鬱陵島と于山島は朝鮮領である」とした書状を与える事は決してないのです。

 こうしてみると、この証言のうち正しいのは、「鬱陵于山両島監税を僭称」したこと、「安龍福が駕籠に乗り、他の者が馬で鳥取の城下」に入った事だけです。

 韓国はこのようなデタラメの安龍福証言に依拠しているのです。

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『東国文献備考』が典拠した文書の追跡と「于山島=竹島」に改竄される過程

『東国文献備考』が典拠した文書の追跡と「于山島=竹島」に改竄される過程 傑作(7)
2008/7/27(日) 午前 9:37竹島問題歴史 Yahoo!ブックマークに登録


 韓国が竹島を領土の一部とするもう一つの根拠に、1770年に書かれた『東国文献備考』という史料があります。その一篇の輿地考(よちこう)の中に「輿地志に云う、鬱陵、于山、皆于山国の地。于山は則ち倭の所謂松島なり」という記述を受けて、于山島が日本の松島(=昔の竹島の呼び名)であるとして、日本より古い文献に于山島の名があるので、歴史的に竹島は韓国固有の領土であるというわけです。問題となるのは、于山島という島が日本の松島、今日の竹島を指しているのかどうか、つまり、『東国文献備考』の記述(分註)が正しいのかどうかです。
 ですが、この『東国文献備考』は、例の記述の分註に引用される際に改ざんされています。その過程を検証したいと思います。

 『東国文献備考』百四十巻は、英祖の命により、古今の文物制度の典拠を網羅する目的で編纂されました。『東国文献備考』の編纂が本格的に始められたのは、李潭、金応淳、洪名漢、徐浩修、申景濬などが編者に命じられた英祖四十六年(1770年)正月十一日以後のことで、英祖四十六年(1770年)閏五月に編纂事業を終え、同年八月に刊行されました。
 したがって、編纂期間は僅か5ヶ月ほどで、異常に短い。百巻以上の大部になる編纂事業であるのに、編纂から出版まで半年で終えられたのは、既存の文献を収集し再編集するだけであると考えられます。

 したがって、安龍福の記事を載せた『東国文献備考』の分註にも典拠としたオリジナルが存在していました。
 では、『東国文献備考「輿地考」』に記載された鬱陵島関連の記事は、どのような文献を典拠にして編纂されたかが問題になります。その原典は、『英祖実録』の英祖四十六年(1770年)閏五月十六日条に依れば、「輿地考」の底本には、編者である申景濬の『旅菴全書』(1756年)の「彊界考」が使われています。では、「彊界考」の鬱陵島に関する記事はというと李孟休の『春官志』を典拠としています。
 
 また、『東国文献備考』の記事と、『春官志』の「鬱陵島争界」を比較してみると、『東国輿地勝覧』や『世宗実録「地理志」』と記事が重複する部分を除くと、多少の潤色が加えられていますが、数句を除いて『春官志』の本文と一致します。

 それでは、肝心の部分を、それぞれに比較してみます。
まず『東国文献備考』では「輿地志に謂う、鬱陵、于山皆于山国の地。于山は即ち倭の所謂松島なり」とあり、原本の『春官志』の鬱陵島の註では「蓋しこの島、その竹を産するを以ての故に竹島と謂い。三峯ありてか三峯島と謂う。于山、羽陵、蔚陵、武陵、磯竹島に至りては、皆、音号転訛して然るなり」原本の『春官志』では、確かに于山島を鬱陵島の別称としています。
 一方で申景濬の「彊界考」では、「按ずるに、輿地志に云う、【一説に于山、鬱陵本一島】而るに諸図志を考えるに、二島なり。一つは則ちその所謂松島にして、蓋し二島は倶に是れ于山国なり」

 ここでの問題は、申景濬の「彊界考」の記述が、すべて柳馨遠の『輿地志』からの引用かどうかであります。この柳馨遠の『輿地志』が、日本側の呼称「松島」という地名を知っていたかどうかが問題なのです。しかし、柳馨遠の『輿地志』は現存していません。それゆえに引用された箇所を確認する事は出来ません。そして『東国文献備考』の編纂期間が僅か5ヶ月と短いために、その『輿地志』から正確に引用されたかどうかも不明です。

 安龍福が拿捕されたのは1693年、柳馨遠の『輿地志』は安龍福の証言よりも40年ほど早い1656年に成立、米子の大谷甚吉は、鳥取藩に竹島(鬱陵島)への渡海を願い出たのは1617年。現時点では韓国の史料で「松島」という島名が出てくるのは、安龍福に関する『粛宗実録』(1728年)からです。現況では、柳馨遠の『輿地志』より前に「松島」と言う呼称が朝鮮に知られていたと言う事を示す史料はなく、『輿地志』に松島という文言が出てくることは有り得ません。よって、2行目の「而る」に以後の記述は申景濬自身の私見ということになります。

 さらに、冒頭の「按ずるに」は、「考えをめぐらすに・思うに」という意味です。ですから「按ずるに、輿地志に云う~」と書くと「思うに輿地志に言うところの一説には于山、鬱陵は元々は一島である」ということになり、「而るに」に繋がります。そして、2行目以降で『輿地志』の一説とは反対の説を唱えているのだから、「而るに」は逆接の接続詞で使われている事も分かります。

 もし、「而るに~」以後の言葉も輿地志からの引用だとすれば「按ずるに」という冒頭の言葉は、どこにも繋がらなくなります。「引用した文についての考えを巡らしてみて、結論はどうだったのか」そのつながりは、どこにもない事になります。

 このことで、申景濬が柳馨遠の『輿地志』から引用したのは、「一説に于山、鬱陵本一島」だけであり、「而るに」以下は、申景濬の私見であることが分かるのです。

 また、原典の柳馨遠の『輿地志』では、「一説に于山、鬱陵本一島」と、【于山島と鬱陵島は同じ島の別の呼び方(同島異名)がある】としているだけで、松島(=現在の竹島)のことには、全く言及していないことも分かってきます。申景濬は、古地図や文献に于山島や鬱陵島が描かれていることを理由にして、『輿地志』の字句を改めて、于山島と鬱陵島を別々の島=二島と按じています。

 さらに申景濬は、安龍福の供述である「于山は則ち倭の所謂松島なり」と言う語句を、まるで『輿地志』の説であるかのように挿入して、于山島を松島と臆断して、それを于山国に入れているのです。于山島は断じて竹島ではありません。

 韓国政府が竹島の領有権を主張する根拠とした『東国文献備考』の分註は、こうして改竄されたものであったです。


 

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日本の史料検討―隠州視聴合紀

日本の史料検討―隠州視聴合紀 傑作(3)
2008/7/27(日) 午後 0:17竹島問題歴史 Yahoo!ブックマークに登録


 *朝鮮の地図では、竹島を一島としてしか描いていませんが、日本の地図は、二島(西島・東島)及び周辺の岩礁も明確に書かれております。この辺の地図の正確さの違いからも韓国が竹島をほとんど認識し得ていなかったことを表しています。

 古記録の上で、竹島の存在がはっきり明記されたのは寛文七年(1667年)に発行された『隠州視聴合紀』からです。これは、出雲松江藩主(松平出羽守綱隆)の命により、同藩士の斎藤豊仙が編纂したものです。1667年8月、出雲松江藩の齋藤豊仙が隠岐郡代として、約2ヶ月を掛けて隠州(隠岐島)を巡察した際の、「視て」「聴いた」ことを採録した近世隠岐の地理誌(調査報告書)です。この『隠州視聴合紀』の巻一の「国代記」の章において、問題の竹島の記述が含まれています。

 隠州在北海中故云隠岐島、[按倭訓海中言遠幾故名歟]、其在巽地言嶋前也、知夫郡海部郡屬焉、其位震地言嶋後也、周吉郡穩地郡屬焉、其府有周吉郡南岸西鄕豊崎也、従是、南至雲州美穂関三十五里、辰巳至伯州赤碕浦四十里、未申至石州温泉津五十八里、自子至卯、無可往地、戍亥間行二日一夜有松島、又一日程有竹島、[俗言磯竹島多竹魚海鹿、按神書所謂五十猛歟]、此二島無人之地、見高麗如雲州望隠州、然則日本之乾地、以此州為限矣。

 隠岐島は北海(日本海)の中にある。[思うに、大和言葉で海の中を「おき」というので、このように名付けたのだろうか]その南東にある地を島前と言う。知夫郡と海部郡がこれに属する。その東にある地を島後と言う。周吉郡と穏地郡がこれに属する。その府は周吉郡南岸の西郷豊崎である。隠岐島より南、島根県の美保関までは35里。(隠岐島から見て)東南にある鳥取県の赤碕浦までは40里。南西にある島根県の温泉津までは58里。北から東に至る間には、目安となる地がない。北西の間には、二日一夜行くと、松島(現・竹島)がある。さらに、一日の行程のところに竹島(現・鬱陵島)がある。[俗に磯竹島という。竹・魚・アザラシが多い。思うに神書(=日本書紀)に記述のある五十猛の神だろうか。]この松島と竹島の2島は無人島である。そこ(鬱陵島)から朝鮮が見えるのは、ちょうど出雲から隠岐島を遠望するのと同じである。ならば即ち、日本の北西の地は、この州(鬱陵島)をもって境とする。

 斎藤豊仙は『隠州視聴合紀』で、上記のように、北海の中にある隠岐島が、隠岐島から東西南北、それぞれの方向にある日本の領土まで、どれだけの位置にあるかを記述しています。そして、日韓双方がそれぞれ竹島を自国領とする根拠としてきました。それは、巻一の『国代記』には松島(現在の竹島)と竹島(現在の鬱陵島)の二島の名前が見え、その(強引ではあるが)解釈によっては、竹島が韓国領とも解釈出来るからです。

 韓国側は「此の州を以って限りと為す」の部分の此州を隠岐島であるとして、それより北西にある鬱陵島・竹島を日本が領有していないとしたのです。ですが、この韓国側の主張には無理があります。
 一方で、日本は、「然からば即ち、日本の乾(北西)の地、此の州を以て限りと為す」の「此州」を鬱陵島の事と解釈し、それより東にある竹島(当事は松島)は当然、日本領であると解釈しました。齋藤豊仙は、竹島(=鬱陵島)・松島(=竹島)への地理的関係を以下のように説明しています。

 (隠岐島より)戌亥(北西)の間、行2日1夜行けば、松島(現在の竹島)がある。また一日ほどの程で竹島(現在の鬱陵島)がある。これは俗に言う磯竹島のことである。竹や魚・海驢(あしか)が多い。この2島、無人の地である。高麗(朝鮮)を見ること雲州(出雲)から隠州(隠岐島)を望むがごとし。

 問題はこの高麗を望んだ地点とはどこかということです。これは、雲州(出雲)から、隠岐島を見るように、高麗(朝鮮)が見える地点と言うことだから、竹島、鬱陵島、どれかです。この中で、日本領から高麗(朝鮮)が望めるのは、鬱陵島だけです。そのように高麗が見える地点とは、鬱陵島と言うことになります。『隠州視聴合紀』からは、雲州から隠州を見るように、当事日本領であった鬱陵島から高麗(朝鮮)が見えると地理的特性を説明しています。
 そして、然からば即ち、日本の乾(北西)の地、此の州を以て限りと為す(然則日本之乾地、以此州為限矣)、へと繫がります。「然からば」の役割は、雲州(出雲)より隠州(隠岐)を望むように、「竹島(=鬱陵島)」から高麗(朝鮮)が望める事を強調するためにあることからも、「此の州」が鬱陵島を指してるのは間違いありません。

 また、『隠州視聴合紀』が書かれた当時、幕府は鬱陵島を日本領として認識していた(事実、大谷家などが開発に鬱陵島へ渡っている)のに、それをわざわざ鬱陵島を除外して、隠岐島を北西限とするはずもない。齋藤豊仙が鬱陵島を日本領として『隠州視聴合紀』に書くのは当然の事です。

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1877年3月20日付の太政官指令の「外一島」について

1877年3月20日付の太政官指令の「外一島」について 傑作(5)
2008/7/27(日) 午後 1:27竹島問題歴史 Yahoo!ブックマークに登録


 上の資料は、太政官の通達で内務省が1877年3月20日付けで出した通達で、
「日本海内竹島外一島~本邦関係無之」とあり、鬱陵島と外一島が朝鮮の領土であることが明記されています。韓国は、ここに載っている、「竹島外一島」の”外一島”を竹島であると主張しています。しかし、その論拠となる積極的な証拠はありません。

 日本が1905年に竹島を正式に日本の領土に組み入れるために、様々な調査をしています。1876年(明治九年)10月、内務省地理寮は地籍編纂のため、島根県に対して竹島(鬱陵島)について照会しています。これに対して島根県は、「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」を内務省に提出した。それには、竹島(鬱陵島)と外一島は朝鮮領であるという認識を示した。島根県の報告を受けた内務省は「版図の取捨は重大の事件」であるため、1877年太政官の判断を仰ぐことになりました。その審査では、「本邦関係これ無き義と相心得べき事」として、竹島(鬱陵島)と外一島は日本領ではないと言う結論が下されたのです。

 ただ、この太政官の審査は充分とは言えません。なぜなら、「竹島外一島」の「一島」が今日の竹島を指すのか?或いは他の島なのか?判然としません。韓国側が一方的に言っているだけです。もし、その「一島」が今日の竹島ならば、「本邦関係これ無き」とは言いません。
 それは江戸時代から日本は松島という名で竹島を呼んでいます。また、松島(現在の竹島)を示す記録や地図も多く残っていますし、それらの記録から日本領と認識しています。そうであるから、松島を放棄するならば、「鬱陵島及び松島」と固有名詞を使用するはずです。

 では、なぜ「1877年3月20日付の太政官指令」の文書で、「外一島」と表現したかを考えてみます。即ち、「外一島」と表現する理由は、日本には元々そのような固有名詞がない島だからだと考えられます。つまり、外務省が「松島」と書かないで「外一島」とした島は鬱陵島の属島のどれかであると思われます。鬱陵島には竹嶼以外にも、幾つかの島又は岩礁がありますから。

 少なくとも、明治十年三月二十九日の太政官指令だけをもって日本が「北緯37度東経132度付近にある竹島を放棄した」という根拠にはなりません。

 仮に日本が「外一島」で竹島の領有権を放棄したと仮定しましょう。この場合でも韓国側の実効的支配の証拠がなければ、無主地になるか未成熟な権原になるだけです。そうであっても、島根県編入で日本が実効的支配をしたことに変わりはありません。
 また、1928年のバルマス島事件(オランダとアメリカの争い)の判例から、未成熟な権原よりも、平和的継続的な実行的支配が優先します。日本の竹島編入の実行的支配が「平和的継続的」でないことを証明できなければ、韓国の主張は通りません。立証責任は韓国にあります。

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明治政府による竹島の閣議決定から島根県編入までの経緯

明治政府による竹島の閣議決定から島根県編入までの経緯 傑作(6)
2008/7/27(日) 午後 2:03竹島問題歴史 Yahoo!ブックマークに登録


 1897年(明治36-7年頃)
隠岐の島民が竹島でアシカの群棲しているのを発見し、その5,60頭を捕獲して内地に持ち帰り、相当の利益を得た事から、隠岐島民の間で1903年から竹島でのアシカ捕獲競争が始まった。しかし、乱獲の結果、アシカが絶滅する危険が出てきた。

 1904年9月25日
そのアシカの乱獲を防止するために、アシカ漁業を取り締まる必要が出てきて、漁民の一人、中井養三郎が、「りやんこ島(リアンクール島・竹島の洋名)領土編入並に貸下願」を内務、外務、農商務三大臣に提出し、同島を本邦領土に編入すると共に、10年間同人に貸し下げるよう願い出た。

 1904年(1904年)11月15日
政府は、明治37年(1904年)9月29日付の中井養三郎の出願を受け、島根県の意見を尋ねた。島根県は、島根県は内務部長名で隠岐島司に、リアンクール島(竹島)を隠岐島の所管として差し支えないか、同島をいかに命名すべきかを照会した。


 1904年(明治37年)11月30日
隠岐島司は同島を隠岐島の所管とすることに異議がないことを回答し、竹島と命名することが適当だという意見を上申した。


 1905年(明治38年)
1月28日 閣議決定。政府は、これらの意見を基として審議して、明治38年(1905年)1月28日、閣議決定して同島を島根県所属隠岐島司の所管として、竹島と命名し、その旨を内務大臣より島根県知事に訓令した。

 1905年(明治38年)2月15日 
島根県知事に訓示。日露戦争の最中に、明治政府は、島根県所属隠岐島司の所管とする事を決定し、「他国ニ於イテ之ヲ占領シタリト認ムヘキ形跡」の無い無人島を竹島と命名した閣議決定を、島根県知事に訓示した。
 北緯37度9分30秒東経131度55分、隠岐島ヲ距ル西北85浬ニ在ル島嶼ヲ竹島ト称シ、自令其所属隠岐島司ノ所管トス


 1905年(明治38年)2月22日
島根県告示第40号を公示それを受けた島根県知事は、島根県告示第40号に於いて「島嶼ヲ竹島ト称シ、爾今本県所属隠岐島司ノ所管ト定メラル」と公示した。こうして、日本海の絶海の孤島は竹島と命名され、島根県に編入された。

1905年(明治38年)5月3日
面積弐拾参町参拾参畝歩の官有地として土地台帳に掲載。

 1905年(明治38年)4月
島根県は、漁業取締規則を改正して、竹島のアシカ漁を許可制とした。

 1906年6月
中井養三郎ら4名の出願を許可した。

 1905年8月には、島根県知事松永武吉が、1906年には島根県第三部長神田由太郎の一行が、竹島を実地に調査した。

 
 明治三十八年一月二十八日閣議決定

別紙内務大臣請議無人島所属に関する件を審査するに右は北緯三十七度九分三十秒東経百三十一度五十五分隠岐島を距る西北八十五浬に在る無人島は他国に於て之を占領したりと認むへき形跡なく一昨三十六年本邦人中井養三郎なる者に於て漁舎を構へ人夫を移し猟具を備へて海驢猟に着手して今回領土編入並に貸下を出願せし所此際所属及島名を確定するの必要あるを以て該島を竹島と名ヶ自今島根県所属隠岐島司の所管と為さんとすと謂ふに在り
依て審査するに明治三十六年以来中井養三郎なる者該島に移住し漁業に従事せることは関係書類に依り明なる所なれは国際法上占領の事実あるものと認め之を本邦所属とし島根県所属隠岐島司の所管と為し差支無之儀と思考す
依手請願の通閣議決定相成可然と認む

    内務大臣訓令

訓第八七号
北緯三十七度九分三十秒東経百三十一度五十五分隠岐島を距る西北八十五浬に在る島嶼を竹島と称し自今其所属隠岐島司の所管とす
此旨管内に告示せらるへし

右訓令す
明治三十八年二月十五日
                                内務大臣 芳川顕正
島根県知事 松永武吉殿


 この閣議決定及び内務大臣訓令に基づき、島根県知事は、明治三十八年二月二十二日、島根県告示第四十号をもって、本島の名称とその所属所管について次のように公示するとともに、隠岐島庁にも指令した。

 島根県告示第四十号
北緯三十七度九分三十秒東経百三十一度五十五分隠岐島を距る西北八十五浬に在る島嶼を竹島と称し自今本県所属隠岐島司の所管と定めらる

明治三十八年二月二十二日
                               島根県知事 松永 武吉


       島根県庶第十一号
                               隠岐島庁
北緯三十七度九分三十秒東経百三十一度五十五分隠岐島を距る西北八十五浬に在る島嶼を竹島と称し自今本県所属隠岐島司の所管と定められ候条此旨心得ふへし
右訓令す
明治三十八年二月二十二日
                               島根県知事 松永 武吉

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竹島編入についての韓国側の批判Q&A

竹島編入についての韓国側の批判Q&A 傑作(7)
2008/7/29(火) 午前 9:01竹島問題歴史 Yahoo!ブックマークに登録


 韓国は、1905年の日本による竹島編入を竹島を巡る争いからして、とても重要なことであると考えてその批判の度を強めています。裏を返せば、この竹島編入が韓国にとっては都合の悪いことであるのです。そこで韓国側の批判(=因縁)に再反論します。

 Q.日本の竹島領土編入措置は無効である(仮に無効なら、どのような要件が必要か?)

 A.明治38年の日本の領土編入措置が無効だと言うためには、韓国がそれ以前から竹島を実効的に占有していた事、即ち国家機能を現実に行使していた事が証明された時のみです。
 しかし、韓国は、日本の行為を無効だと批判するだけであり、積極的に自らの実効的占有を行なった証拠は、何一つ提出していません(出そうにも、戦前は全く認識していなかったから、それは無理と言うもの)。日本との紛争が生じた1952年以降の活動は、とても活発です。
 しかし、1905年以前では、韓国の公的活動は皆無です。韓国は、日本側の領土編入を無効と言うためには、韓国自らが竹島を実効的に占有していた事実を立証する責任があり、それをなしえない限り、日本の措置を無効だと言っても、法的な意義はありません。韓国は、全く違う島の記述を竹島であると言い張ったり、改竄された記録を持ち出したりと面の皮が厚い。

 Q.当時の大韓帝国に外交権がなかったから抗議できなかった

 A.1905年2月の島根県の官有地となる閣議決定は秘密裏に行ったわけではなく、告示しています。これに対して韓国側からは何一つとして抗議は無かった。
 ですが、「当時の大韓帝国に外交権がなかったから抗議できなかった」と言う。この1905年(明治38年)2月22日、当時は、韓国はまだ完全なる主権国家であったのですが、何一つ関心を示していません。そのようなイチャモンは通用しません。ちなみに韓国が日本の保護国となるのはその9ヶ月後の1905年11月です。
 しかし、島根県の竹島編入は第二次日韓協定の前であり、日本は韓国の外交の相談役としてアメリカ人を派遣しただけで、外交権そのものを奪っているわけではありません。その証拠に、1905年8月12日の第二次日英同盟第三条の条文(日本國ハ韓國ニ於テ政事上、軍事上及經濟上ノ卓絶ナル利益ヲ有スルヲ以テ大不列顛國ハ日本國カ該利益ヲ擁護増進セムカ爲正當且必要卜認ムル指導、監理及保護ノ措置ヲ韓國ニ於テ執ルノ權利ヲ承認ス但シ該措置ハ常ニ列國ノ商工業ニ對スル機會均等主義ニ反セサルコトヲ要ス )について、大韓帝国の朴斉純外相はこれを非難し、駐韓イギリス公使と日本公使に抗議しています。このことからも、竹島編入について、この時期の韓国は抗議可能です。

 例えば、プレア・ビヒア寺院事件(フランスから独立したカンボジアがタイとの国境にあるプレア・ビヒア寺院とその周辺の地域の領有を争い、カンボジアが勝訴)において国際司法裁判所はタイが当事の大国フランスに対して抗議をしなかったことを重く見たことからも、例え仮に当時の事情がそうであったとしても、韓国の言う編入措置が即無効になるものではありません。

 また、竹島に韓国が一切の関心を示していない以上、国際法に従うならば、この閣議決定を通告する義務は日本にはありません。重要なことは、1904年以前に韓国が竹島に対して実効的な支配を及ぼしうる完全な立場にありながら、支配権を及ぼさなかったという点にあります。

 Q.竹島の編入を、他国へ通知しなかったから無効?

 A.韓国は、日本の領有意思の表明が島根県告示という形で為されたが、中央政府ではなく地方の官庁により秘密裡にに行なわれた。しかも、韓国政府に対する通告が無かったのであるから、無効と言う。
 これは国際法上、国家による領有意思の表明が一定の方式をとることを要求されているかの問題に関わる。特に、韓国政府に対する通告がなかったから無効である、と韓国側は言う。
 しかし、国際法上、領土取得の心的要件とされている領有意思の表明には、一定の形式というものはありません。明示に為されなくても、平穏かつ継続して問題の土地に国家機能を表示することから、推定されることもあります。まして、地方官庁の告示によったにせよ、竹島の所属が国家機関により明確な形で示されたのですから、これで十分です。

 京大の大寿堂鼎教授の解説によれば、国際法もしくは国際先例上、領土編入行為の要件として周辺国への通告は要求されていないとされています。従って、韓国側はまず、「そもそも国際法上の領土編入行為において、周辺国への通告が要件とされている」という事実を証明する必要があるでしょう。

 また、韓国は秘密裏に領土編入を行なったといいますが、告示は正式に公示された上、新聞報道も行なわれています。クリッパートン島事件(フランスとメキシコの争い)判決によれば、ハワイ・ホノルルの新聞の掲載により「公知」と判断されています。「フランスの主権はすでに布告されている」という事後報告及び紹介記事で「公知」とされています。

 Q.島根県告示は、カイロ宣言(1943年11月)に違反する?

 A.島根県告示がカイロ宣言(1943年11月)に(それを受けたポツダム宣言にも)違反すると韓国はこのように主張しますが、この主張は、国際法的には荒唐無稽で詭弁です。アメリカ、イギリス、支那のカイロ宣言には、「日本国は、暴力及び強欲により略取した一切の地域から駆逐されるべし」と確かにあります。しかし、竹島はこの暴力・強欲とも無関係です。竹島は、その歴史において、カイロ宣言の適用範囲外です。

 Q.日本が、先占の法理で領土を編入したことが無効?

 A.韓国は、竹島は無主の地ではなく韓国領であったから「先占」は無効と主張する。この韓国の主張は、竹島が古くからの韓国の領土であったか否かに関わる議論と同じであり、すでに検討したことから明らかなように韓国領であることは必ずしも確定できません。というか、韓国はほとんどその存在すら認識していないという有様です。

 竹島に関する編入措置が明治38年になされたのは、韓国その他の周辺国とも紛争を生じていませんでしたが、1903年頃から大規模に行なわれたアシカの乱獲を防ぐために、アシカ漁業を取り締まる必要が出てきたからです。
 ただ、日本(明治政府)は無主の地を先主したという認識ではなく、先占の行為の形式を呈してはいますが、竹島編入の閣議決定を見ると、当時の明治政府は竹島のように本土から離れた島々を正式に領土として確定するためには、国際法上先占の要件を具備する必要があると考えていたようです。

 韓国は、日本の編入措置を無効と言うなら、自ら竹島を実効的に占有していた事実を立証する責任があり、それをなしえない限り、日本の措置を無効だと言っても、法的な意義はないと結論付けられます。

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戦後の竹島関連年表

戦後の竹島関連年表 傑作(7)
2008/7/29(火) 午後 1:56竹島問題歴史 Yahoo!ブックマークに登録


1943年11月27日 カイロ宣言
1945年7月26日 ポツダム宣言
     8月15日 日本敗戦
1946年1月29日 GHQ指令SCAPIN677(Supreme Command for Allied Powers Instruction No.677)
 連合国司令部「若干の外郭地域の日本からの政治上及び行政上の分離に関する覚書」 竹島を日本の“行政権”から外すが、第6項には、「この指令中のいかなる規定も、ポツダム宣言の第8項に述べられている諸小島の最終的決定に関する連合国の政策を示すものと解釈されてはならない」(ポツダム宣言第8項:「日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国竝ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ」)と明記されている。*韓国はこのSCAPIN677で、日本の領土から竹島が除外されているからとしますが、あくまでも行政権の停止です。このSCAPIN677については、別に記事作成します。
 6月22日SCAPIN1033 連合国司令部覚書「日本の漁業及び捕鯨業に認可された区域に関する覚書」
 連合国はいわゆる「マッカーサー・ライン」を規定する同文書をもって、日本の漁業及び捕鯨許可区域を定めた。その第3項には、「日本船舶又はその乗組員は竹島から12マイル以内に近づいてはならず、またこの島との一切の接触は許されない。」と記された。しかし、同第5項には、「この許可は、当該区域又はその他のいかなる区域に関しても、国家統治権、国境線又は漁業権についての最終的決定に関する連合国の政策の表明ではない。」と明記されている。

1949年1月8日李承晩大統領が対馬返還要求。同大統領は政府樹立直後の新年記者会見で日本に対馬島返還を要求した
     11月14日駐日政治顧間代理(シーボルド)からバタワース国務次官補へ電報。シーボルト駐日政治顧問がアメリカ国務省に対して、「リアンクール岩(竹島)の再考を勧告する。この島に対する日本の領土主張は古く、正当と思われる。安全保障の考慮がこの地に気象およびレーダー局を想定するかもしれない」と提言した。*韓国は、連合国が日本との平和条約の起草段階において、何度も竹島を韓国領に組み入れるよう要望していますが、アメリカは占領間の調査から、日本が竹島を古くから正当かつ有効に領有していた事実を確認し、韓国側の要求を拒否しました。

 1950年オーストラリア政府の質問に対する米国の回答(*アメリカはイギリスやオーストラリアなど他の連合国と、日本の領土についてやり取りを行っている、これはその一端)
 米国極東アジア事務局のロバート・A・フィアリー氏のメモ(日付なし)より。(『オーストラリア政府からの質問状に対する回答』より) 「内海の島々、隠岐列島、佐渡、奥尻、礼文、利尻、対馬、竹島、五島列島、琉球北部、伊豆諸島、などの永く日本領と認識されていた島々は日本が保持することになるであろうと考えられている。」

1951年4月27日韓国が対馬の領有権を主張
 韓国はアメリカ国務省に送った文書の中で、サンフランシスコ条約草案の「領土」部分に対して言及しながら、「韓国は正義が永久的平和の唯一の基盤という堅固な信頼で対馬島の領土的地位に対する完全な検討をすることを要請する」とし、「歴史的にこの島は韓国領土だったが日本によって 強制的、不法的に占領された」と言った。しかし、米国側は「対馬は日本が長期間にわたり完全に統治しており、平和条約は対馬の現在の地位に影響を及ぼさない」と答え、韓国の要求を拒否した。
     8月10日「ラスク書簡」・国務次官補ラスクからヤン韓国大使へ書簡
 ラスク極東担当国務次官補から梁大使への書簡は次の通り、明らかに竹島は日本の領土であるということが肯定されているものであった。 「合衆国政府は、1945年8月9日の日本によるポツダム宣言受諾が同宣言で取り扱われた地域に対する日本の正式ないし最終的な主権放棄を構成するという理論を(サンフランシスコ平和)条約がとるべきだとは思わない。ドク島、または竹島ないしリアンクール岩として知られる島に関しては、この通常無人である岩島は、我々の情報によれば朝鮮の一部として取り扱われたことが決してなく、1905年頃から日本の島根県隠岐島支庁の管轄下にある。この島は、かつて朝鮮によって領有権の主張がなされたとは見られない。」
      9月8日サンフランシスコ平和条約条約に調印
 日本による朝鮮の独立承認を規定するとともに、日本が放棄すべき地域として「済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮」と規定した。(韓国領土に当然竹島は含まれず)

1952年1月18日李承晩大統領の海洋主権宣言(李承晩ライン宣言)
韓国大統領李承晩、海洋主権宣言により竹島の領有を主張。以後、日本漁船の拿捕や銃撃するなど竹島を武装占拠し、非武装であった日本政府に対して脅迫的な外交を開始。 1965年(昭和40年)の日韓漁業協定が成立するまでの13年間に、韓国による日本人抑留者は3,929人、拿捕された船舶数は328隻、死傷者は44人(うち39人が死亡)を数えた。船はすべて没収され、漁民は長期間の抑留の後、処罰されて帰還した。李承晩ラインの問題を解決するにあたり、日本政府は韓国政府の要求に応じて、日本人抑留者の返還と引き換えに、常習的犯罪者あるいは重大犯罪者として収監されていた在日韓国人・朝鮮人472人を収容所より放免し、韓国人密入国者の日本滞在の合法化として在留特別許可を与えた。完全に不法な要求であったが、防衛力を持たない当時の日本は韓国の要求を受け入れざるを得ず、以後これらの処遇は在日韓国・朝鮮人の既得権となったまま、今日に至っている。
     4月28日サンフランシスコ講和条約発効

1954年2月10日外務省の覚書「1954年2月10日付亜2第15号」
     9月25日国際司法裁判所提訴についての口上書
 日本政府は、竹島紛争について、国際司法裁判所に付託して、公平な第三者の裁判による解決を韓国に提案。
    10月28日韓国側は国際司法裁判所への付託の提案を拒否。

1962年3月日韓外相会談
 日本政府が再度竹島問題の国際司法裁判所への付託を韓国に提案したが、韓国側からは前向きな反応が得られず。

1965年6月22日日韓基本条約調印
 「李承晩ライン」が廃止されるが、竹島問題は紛争処理事項とされる。

 私は、于山島が竹島であると主張し、1905年の島根県への編入を無効だと考えるのであれば、韓国政府は日本の要請に応え、国際司法裁判所に出廷し自らの意見を述べ、竹島問題の解決を図るべきであると考えます。話し合いすら拒否し、妄言を繰り返す裏には自分たちの主張に自身がないことの表れでしょうか。















 

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連合国軍最高司令官総司令部覚書(SCAPIN677及びSCAPIN1033)について

連合国軍最高司令官総司令部覚書(SCAPIN677及びSCAPIN1033)について 傑作(5)
2008/7/30(水) 午前 8:58竹島問題歴史 Yahoo!ブックマークに登録


 韓国側の主張によると、日本領は北海道本州九州四国と約一千の隣接島とされましたが、SCAPIN677号の第3項では鬱陵島、竹島(Liancourt Rocks)、済州島を除外すると定められています。そして、これに基づき、竹島は当時の駐韓米軍に移管され、1948年8月15日大韓民国成立により自動的に全ての領土が大韓民国に返還され回復された、と言っています。本当でしょうか?SCAPIN677の要点を見て行きます。

 Governmental and Administrative Separation of Certain Outlying Areas from Japan
「日本からの、若干の外郭地域の政治上及び行政上の分離に関する覚書」

 1.The Imperial Japanese Government is directed to cease exercising, or attempting to exercise, governmental or administrative authority over any area outside of Japan, or over any government officials and employees or any other persons within such areas.
 1.日本国外の全ての地域に対し、又その地域内にある政府役人、雇用員その他全ての者に対して、政治上又は行政上の権力を行使すること、及び行使しようと企てることは、すべて停止するよう日本帝国政府に指令する。

 3. For the purpose of this directive, Japan is defined to include the four main islands of Japan (Hokkaido, Honshu, Kyushu and Shikoku) and the approximately 1.000 smaller adjacent islands,
including the Tsushima Islands and the Ryukyu (Nansei) Islands north of 30' North Latitude (excluding Kuchinoshima Island) ;
and excluding
(a) Utsuryo (Ullung) Island, Liancourt Rocks (Take Is-land) and Quelpart (Saishu or Cheju) Island,
(b) the Ryukyu (Nansei) Islands south of 30' North Latitude (including Kuchinoshima Island),
the lzu, Nanpo, Bonin (Ogasawara) and Volcano (Kazan or lwo) Island Groups, and
all other outlying Pacific Islands including the Daito (Ohigashi or Oagari) Island Group, and Parece Vela (Okino-tori), Marcus (Minami-tori) and Ganges (Nakano-tori) Islands, and
(c) the Kurile (Chishima) Islands, the Habomai (Hapomaze) Island Group (including Suisho, Yuri, Akiyuri, Shlbotsu and Taraku Islands) and Shikotan Island.
 3.この指令の目的で、日本とは4つの主要な島(北海道、本州、九州および四国)、そして約1.000の小さな隣接した島を含むと定義される。対馬島および北緯30度以北の琉球(南西)諸島を含んでいる(口之島以外)。
 そして、以下の諸島は含まない。
(a) 鬱陵島、Liancourt Rocks (竹島)および済州島、
(b) 北緯30度以南の琉球(南西)諸島、(口之島を含む)
伊豆、南方、小笠原および硫黄島群島、及び大東諸島を
そして沖鳥島、南烏島および中の鳥島を含むその他のすべての遠隔の太平洋諸島
(c) 千島列島、歯舞諸島グループ(水晶島、勇留、秋勇留、志発および多楽各島を含む)および色丹島。

 4. Further areas specifically excluded from the governmental and administrative jurisdiction of the Imperial Japanese Government are the following:
(a) all Pacific Islands seized or occupied under mandate or otherwise by Japan since the beginning of the World War in 1914,
(b) Manchuria, Formosa and the Pescadores,
(c) Korea, and (d) Karafuto.
 4.更に、日本帝国政府の政治上、行政上の管轄権から特に除外される地域は次の通りである。
(a) 一九一四年の世界大戦以来、日本が委任統治その他の方法で、奪取又は占領した全太平洋諸島。
(b) 満州、台湾、膨湖列島。
(c) 朝鮮及び、(d)樺太。

 5. The definition of Japan contained in this directive shall also apply to all future directives, memoranda and orders from this Headquarters unless otherwise specified therein.
5.この指令で包含された日本の定義は、さらに、すべての将来の指令、メモおよびこの本部からの注文に別段の定めがない限りそこに適用されるものとする。


 6. Nothing in this directive shall be construed as an indication of Allied policy relating to the ultimate determination of the minor islands referred to in Article 8 of the Potsdam Declaration.
 6.この指令中の条項は何れも、ポツダム宣言の第八条にある小島嶼の最終の決定に関する連合国側の政策を示すものと解釈してはならない。

 SCAPIN677の目的は、あくまでも「権力を行使又は行使しようと企てることの停止」であり、竹島に対するGHQの処分は最終的なものではありません。

 そして、これにより、3種類の区域が定義されています。
①3条前段の指令の目的のために定義された日本
②3条後段の指令の目的のために定義される日本の範囲から除かれる地域
③4条の日本帝国政府の政治上、行政上の管轄権から特に除外される地域

 問題の竹島は②に含まれています。特筆すべきこととしてわざわざ「日本政府の政治上、行政上の管轄権」から、特に除外される地域として③が明示されていることです。仮に「竹島」が含まれているのが③であったら、韓国の言い分も少しは説得力があったかもしれませんが、竹島の含まれる②は「日本政府の政治上、行政上の管轄権」から、特に除外されない地域となります。①と②の違いは、基本となる本州とその島嶼部との違いで、他国を支配する鉄則である分割統治をするための統治方法の違いです。実際、伊豆、小笠原、沖縄も②に含まれています。

 
 また、SCAPIN1033でも5条に、SCAPIN677の6条と類似する項目、日本の統治権・漁業権の最終決定に関する連合国の政策を表明しない、とあります。SCAPIN677及び1033においては、竹島に関わる我が国の領域や主権に何ら変更を受けていません。その主権に基づく権限の行使を停止されたに過ぎないということが明らかなのです。
 竹島は韓国の所属となった訳ではありません。まだ、韓国政府は樹立していません。竹島の所属は、主権は日本のままでGHQの管轄下に置かれただけなのです。
 



 

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サンフランシスコ講和条約での竹島の地位

サンフランシスコ講和条約での竹島の地位 傑作(5)
2008/7/30(水) 午後 0:49竹島問題歴史 Yahoo!ブックマークに登録


 竹島問題について、サンフランシスコ講和条約の性格を見て行きます。
 
 1951年(昭和26年)9月8日にアメリカのサンフランシスコで講和会議が開かれ、講和条約を結び、同じ日に日米安全保障条約も結ばれる。
 1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発行して、戦後の日本領が確定する。

 この平和条約において、日本は、朝鮮の独立を承認しましたが、これは日韓併合(日韓合邦)前の朝鮮が日本から分離独立したことを認めたものであって、併合前から日本領土であった地域を新たに独立した朝鮮に割譲するとの意味ではありません。まして、竹島は古来から日本の領土であって、カイロ宣言に言う「暴力および強欲により搾取した地域」でもありません。

 この条約で韓国に直接関係する部分は、以下の通りです。条文はこちら(http://list.room.ne.jp/~lawtext/1952T005.html)参照のこと。

第2条(a)日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び鬱陵島 を含む朝鮮に対するすべての権利、権限及び請求権を放棄する。
第4条 財産に関する規定
第9条 漁業に関する規定
第12条 通商航海条約に関する規定
第21条(前半略)朝鮮は、この条約の第2条、第4条、第9条及び第12条の利益を受ける権利を有する。

 領土問題に関係するのは第2条(a)だけということになりますが、講和条約第2条(a)に竹島は含まれるのでしょうかを見て行きます。

 第2条には、以下のようにあります。

(a)日本国は,朝鮮の独立を承認して,済州島,巨文島及ぴ鬱陵島を含む朝鮮に対するすべての権利,権原及び請求権を放棄する。
(b)日本国は,台湾及ぴ膨湖諸島に対するすべての権利,権原及ぴ請求権を放棄する。
(C)日本国は,千島列島並びに日本国が千九百五年九月五日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利,権原及ぴ請求権を放棄する。
(d)日本国は,国際連盟の委任統治制度に関連するすべての権利,権原及ぴ請求権を放棄し,且つ,以前に日本国の委任統治の下にあつた太平洋の諸島に信託統治制度を及ぼす千九百四十七年四月二日の国際連合安全保障理事会の行動を受諾する。
(e)日本国は,日本国民の活動に由来するか又は他に由来するかを間わず,南極地域のいずれの部分に対する権利若しくは権原又はいずれの部分に関する利益についても,すべての請求権を放棄する。
(f)日本国は,新南群島及ぴ西沙群島に対するすべての権利.権原及ぴ請求権を放棄する。

 ここで「領土権の放棄」として、第2条において日本は「済州島,巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮」「台湾及ぴ膨湖諸島」その他の地域に関する全ての権利,権原及ぴ請求権を放棄をしました。重要なのは、「権利、権原及ぴ請求権を放棄」するというのは「処分行為」だということです。

 即ち、処分行為をなす権利を日本が保持していなければ、そのような「放棄」という「処分行為」は無効となります。この処分行為が可能となるためには、そのための権利「政治上又は行政上の権力」を有していなければなりません。このことから、講和条約第1条後段で「日本国及びその領水に対する日本国民の完全な主権」は、朝鮮をも含む、ポツダム宣言当時の全ての日本領域について回復する必要があるわけです。
 そして、一旦回復した主権に基づき、第2条において明示される領域の主権を放棄する事ができるのです。
 竹島の名前は、第2条「領土権の放棄」にも第3条「信託統治」にも示されていません。放棄もされず、アメリカの信託統治にも付されていない「竹島」は、第1条による我が国の主権の回復と同時に、当然に我が国が十全な権能を有する領域として復帰したのです。

 韓国側では、竹島について「放棄の条項に記述がない」ことが「SCAPIN677の内容に変化がない」ことであるとする主張ですが、もともと、SCAPIN677では、領域や主権の帰属を定めていないことを既に論証しましたので、このような韓国側の見解は明らかに誤りです。それに竹島は、日本との講和条約の起草段階において、連合国内及び米韓間でなされたやり取りからも、竹島が日本の固有の領土であることが確認されています。

 サンフランシスコ講和条約を竹島は日本領であるという、この条約を(日本以外の世界の)42カ国は批准しました。つまり世界は認定したのです。竹島は日本領と主張して、日本政府が竹島の返還を要求する根拠があります。

 また、日韓基本条約でも、1951年9月8日にサンフランシスコ市で署名された日本国との平和条約の関係規定および1948年12月12日に国際連合総会で採択された決議第一九五号(III)を想起し、とありサンフランシスコ講和条約の精神を汲むことが盛り込まれています。当然そこから、竹島は日本領であることが分かります。日韓基本条約を結んでいるのなら、韓国は速やかに竹島から退去し、日本に返還すべきです。

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国際法から竹島問題を検証①用語説明 傑作(5)

国際法から竹島問題を検証①用語説明 傑作(5)
2008/7/30(水) 午後 1:23竹島問題歴史 Yahoo!ブックマークに登録


 国家の領域得失の諸権原には、先占、時効、併合、割譲、添付、征服があり、これらの用語を簡単に説明します。竹島問題を念頭に入れて見て下さい。

 【先占】
 先占とは、帰属未定の地域に国家が支配権を及ぼして、これを取得する事である。先占が有効となるには、国家が領有の意思をもって、無主の地を実効的に占有する必要がある。国際法上の無主の地とは、どの国の領有にも属していない土地ということであり、その上に人が住んでいても、国家の領土でなければ占有できる。

 国家の領有意思の表明は、当該地域を国家の版図に編入する旨の宣言、立法上または行政上の措置、他国への通告などによって表示される。通告が必要条件か否かは、通説では否定されていて、それ以外の手段でも領有が表明されていれば足りるとされます。

 実効的占有とは、現実の土地の使用や定住のような物理的な占有と理解するか、当該地域に対する支配権の確立といった社会的占有と理解する2説があり、実効的占有では、無人島を発見し、これに国旗を掲揚する等の象徴的な領土の編入行為だけでは、有効な先占とはならず、通説では、発見に未成熟の権原を認め、発見した国に相当期間の優先権をもたらすとしますが、実効的占有が続かないと、領土の取得は認められない。実効的占有の程度は、土地の地理的状況や、居住人口の密度により、その度合いには濃淡があり、無人島や極地でも、定期的な巡視などの方法で国家機能を及ぼすことにより、これに対する先占は有効となる。

 【時効】
 時効とは、国家が他国の領土に対して長期間、平穏かつ継続して支配権を行使した結果、これを取得することである。他国の領土に向けて、領有意思と実効的占有を要件として、長期間の妨害されない占有が必要。時効完成の期間についての明確な定めがないため、領土取得の権原として認めない説もある。他国が占有し、継続して支配権を及ぼしている場合、何ら実効的対策をとらなかった場合に、時効が完成して領有権を失う場合がある。

 【添付】
 添付とは、新しい土地の形成に基づいて、国家の領域が増加する事である。新土地の形成は、領海内の海底の隆起、土砂の堆積、その他自然現象によるものから海岸に埋め立て地作るなど、人工的な新地の形成によっても、添付は認められる。外洋に面した部分を埋め立てた場合、その分だけ領海が外へ伸びた事になり、領海が増加する。

 【併合】
 併合とは、国家が他国との合意によって、領域の全部を譲り受ける事。割譲との違いは、譲渡国の一部ではなく、全部を取得する点にある。

 【割譲】
 割譲は、国家が他国との合意によって、領域の一部を譲り受ける事。平時の割譲としては1875年に日本とロシアが合意した樺太・千島の交換日本は樺太の共有権をロシアのために放棄し、ロシアは千島の北部・中部18島を日本に譲り渡した。

 【征服】
 国家が実力により他国の領域を取得すること。ただし、現行では領域権原としての征服は認められない。

 領土の取得と領土紛争に関して適用される原則

1.用語解説
領域権原・・・一定の地域について、領域主権を有効に設定し行使するための原因または根拠となりうる事実

領域主権・・・国家領域の領有・利用に関する排他的権利が及ぶ場所的な範囲を画定するとともに、そこに在留する全ての者に対し包括的な国家管轄権を行使しうる権能

国家管轄権・・・国家がその国内法を一定範囲の人、財産または事実に対して具体的に適用し行使する国際法上の権能

紛争・・・各国が相互に排除しまたは否認しあう主張を公然と行う場合

2.領域の取得
領域権原の取得は、以下の二種類に大別されます
原始取得・・・それまでいずれの国にも属さない地域を先占その他の権原により、国家領域に編入すること。先占においては実効的な支配を要し、その地域における領有意志をもった国家活動(立法・行政・司法等)が実際になされることを要する。

承継取得・・・それまで他国の領域であった部分を併合、割譲その他の権原により転移を受け、国家領域に編入すること

3.時際法
過去の事実を検討する際に、一般的に、その当時に有効であった国際法規に照らして判断すること

4.決定的期日
国家間に領域を巡る紛争が発生した際には、決定的期日以前の平和的・継続的な支配が解決の基準となる。当時国間に紛争が発生し、または領域主権の帰属が決定的となったと見られる時期を、「決定的期日」として決定する。これが決定されると、この時期を基準として、領域権原の証拠となる事実の証拠力が定められる。原則として、決定的期日以前に存在した事実または行為に限り証拠力を認め、特に紛争の存在が明らかになった時点で当事国が自己の立場を有利にするために行った行為については、証拠力を否認する。この原則の例外として、決定的期日以前より継続する事情があり、当事国が自己の立場を有利にするために行ったものでないかぎり、証拠として考慮されうる。

5 その他
・領域主権の表示は、遠い過去の時代に遡って必要とされるわけではなく、決定的期日直前の時点で、現地の状況に応じて合理的と認められる程度に存続しており、他国の主権主張と抵触していなければ十分である。

・本土から容易に到達できる地域については、現地に対する裁判権と、通常の地方行政の実施、政令の適用など、法秩序を維持し実現するための具体的かつ継続的な国家活動を通じての、占有と直接関係のある証拠の存在が必要である。
・占有のため、他国に対する通報は通常必要ない。
・隣接性(地理的な近接性)を根拠とする領域権原は、国際法上の独立の権原としては認められない。

 

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国際法から竹島問題を検証②竹島問題の主な論点と判定される道筋

国際法から竹島問題を検証②竹島問題の主な論点と判定される道筋 傑作(5)
2008/7/30(水) 午後 2:23竹島問題歴史 Yahoo!ブックマークに登録


 竹島問題に関して日韓の主な対立点としては、以下の三つが挙げられます。

①両国は古くから竹島を自国の領土であると主張しているが、その主張する歴史的根拠の有効性。
②明治38年の日本政府による領土編入措置の効力について、領土取得の要件を満たしているか、無効かでの対立
③第2次大戦中のカイロ宣言からサンフランシスコ平和条約条約に至る一連の措置の意義と解釈

 国際法の見地からは、竹島は、日本の領土か、韓国のそれかであり、日韓両国の共同統治地域でもなく、第三国の領土でもなく、帰属未定の無主の地でもありません。そして、互いに、歴史的に竹島を領有してきたと主張していることは1953年に国際司法裁判所が判決したイギリス・フランス間のマンキエ・エクレオ事件(英仏間で争われたマンキエ島及びエクレオ島の領有権をめぐる国際紛争)に似ています。

 両国は、互いに古くから問題の島を領有してきたとして、11世紀に遡る時代の歴史的権原を援用して、その権原は常に維持され、決して喪失しなかったと主張していました。国際司法裁判所は、これらの島の領有権に係る紛争が顕在化する以前から、イギリスがこれらの島に実効的支配を及ぼしているので、両島の領有権はイギリスにあると判断しました。
 この判例の重要な点は、実効的占有を重視したことです。しかし、事実上の支配がその地域が当然その支配国の領土であることを意味するものでないことにも注意しなければなりません。たとえば、占領は、占領地域が当然その占領国の領土になることを意味するものでもありません。韓国の現在の不法占拠によって、竹島が直ちに韓国領になるわけではありません。
 しかし領土は、様々な要因で変更するので、過去に固有の権原をもっていたとしても、それが現在も当然その国の領土であるという証明にもならず、複合的で、総合的な判断が必要です。政府はもちろん、私たちも竹島問題への関心を失わせないことが重要です。

 そこで、両国の援用する歴史的な事実がどれほど国際法上の意義を持つか検討し、両国の主張のどちらが実効的占有の要件に合致しているかを検討して、判定することが適当と思われます。

 これを竹島問題に置きかえると、日本政府は1905年島根県告示をもって竹島を島根県隠岐島司所管とすることを決めており、その後竹島を土地台帳に記載し、漁業取締規則を改正して漁業権者から土地使用料を徴収するなど、上記判決を満たす程度の実効的支配を継続していたと考えられます。

 また韓国側は、1905年の島根県告示は国際法上無主地の先占行為ならば有効であるが、竹島は本来韓国領だったのだから無主地先占の理論は適用がないとも主張しています。しかし、韓国が1905年以前の竹島の領有権を主張するならば、それ以前における竹島への実効的支配を証明しなければならないところ、そのような事実は国際法のレベルでは全く実証されていません。

 領有権は「実効的支配」の有無が大きく影響します。実効的支配の証拠とは、法的根拠をもった、中央及び地方政府としての活動のみが認められます。

 すなわち「竹島を見た可能性がある」(=1693年、日本と朝鮮の間で鬱陵島の領有権が争われ際、朝鮮王朝は『東国輿地勝覧』の分註を、朝鮮半島から鬱陵島が見えるとして、鬱陵島の領有権主張する根拠に使い、ところが韓国政府は竹島問題が起こると、同じ文献を使って、今度は、鬱陵島から竹島が見えると曲解したのです。韓国らしいご都合主義です)、「于山国は竹島も含んでいた可能性がある」といったこじ付け的な間接的推は、実効的支配の証拠にはなりません。当然、安龍福の証言(妄言)も個人的発言なので認められません。仮に見えたのが竹島であったとしても、国際法上は最大限考慮しても「未成熟の権限」になるかどうかで、それを補強する証拠がさらに必要となります。過去の判例にもあるとおり、「未成熟の権限」は「実効支配」よりも劣る。つまり、今の主張だけでは日本の島根県編入を覆すことはできないということになります。

 日本には島根県編入措置を行い、国内法に基づいて島根県が土地台帳登録、使用許可命令、賃貸借許可が行われています。韓国側が、実効的支配の証拠及びその法的根拠を提示できない限り、日本の領土となります。
 なお、実効的支配を認めるには「平和的・継続的」であるかどうかですが、日本政府が領有権の抗議をしているので、現在の韓国による竹島占有は実効的支配の証拠とはなりません。



 

 

 

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竹島問題あとがき

竹島問題あとがき 傑作(9)
2008/7/31(木) 午前 9:43竹島問題歴史 Yahoo!ブックマークに登録  

竹島は、韓国によって不法に武力によって占領されています。日本は、国際司法裁判所への付託を何度も打診しましたが、韓国は話し合いすら拒否しています。それどころか、竹島の警備を強化して、既成事実を積み重ねようとしています。しかし、国際法の決定的期日の原則(=国家間に領域を巡る紛争が発生した際には、決定的期日以前の平和的・継続的な支配が解決の基準となり、決定的期日以前に存在した事実または行為に限り証拠力を認め、特に紛争の存在が明らかになった時点で当事国が自己の立場を有利にするために行った行為については、証拠力を否認する。竹島問題では、1952年あたりが決定的期日となる。韓国の今の既成事実化は原則証拠とならない)によれば、いくら竹島を基地化しても、日本が認めていない以上それに国際法上の証拠力はありません。韓国は、国連に加盟し、又は名誉ある国際社会の一員として、実定の国際法を遵守する義務を有するのなら、この問題を解決すべく真摯に対応すべきです。

 一応(他にも論点がありますが)、これで新書庫の竹島問題の連載を終えますが、これからも竹島関連の記事は随時書いていきたいと思っています、竹島が日本の手に戻ることを願って。

 (関連過去記事)

 竹島問題の概略
http://blogs.yahoo.co.jp/dune01220227/54209352.html

 竹島問題に関する韓国側の言い分(歴史的な根拠)
http://blogs.yahoo.co.jp/dune01220227/54222590.html

 ことこどく デタラメな安龍福の供述
http://blogs.yahoo.co.jp/dune01220227/54222851.html

 ことこどく デタラメな安龍福の供述(2)
http://blogs.yahoo.co.jp/dune01220227/54223326.html

 『東国文献備考』が典拠した文書の追跡と「于山島=竹島」に改竄される過程
http://blogs.yahoo.co.jp/dune01220227/54232780.html

 日本の史料検討―隠州視聴合紀
http://blogs.yahoo.co.jp/dune01220227/54234196.html

 1877年3月20日付の太政官指令の「外一島」について
http://blogs.yahoo.co.jp/dune01220227/54234681.html

 明治政府による竹島の閣議決定から島根県編入までの経緯
http://blogs.yahoo.co.jp/dune01220227/54234892.html

 竹島編入についての韓国側の批判Q&A
http://blogs.yahoo.co.jp/dune01220227/54257395.html

 戦後の竹島関連年表
http://blogs.yahoo.co.jp/dune01220227/54260129.html

 連合国軍最高司令官総司令部覚書(SCAPIN677及びSCAPIN1033)について
http://blogs.yahoo.co.jp/dune01220227/54270176.html

 サンフランシスコ講和条約での竹島の地位
http://blogs.yahoo.co.jp/dune01220227/54272426.html

 国際法から竹島問題を検証①用語説明
http://blogs.yahoo.co.jp/dune01220227/54272672.html

 国際法から竹島問題を検証②竹島問題の主な論点と判定される道筋
http://blogs.yahoo.co.jp/dune01220227/54273104.html

 <参考文献>

 『竹島は日韓どちらのものか』 下條正男著 文春新書
 『日本の国境 』 山田吉彦 (著) 新潮新書
 『日韓・歴史克服への道』 下條正男著 展転社
 『ケースブック国際法(新版)』 田畑茂二郎・大寿堂鼎編 有信堂高文社
 『判例国際法』 田畑 茂二郎他 東信堂
 『国際司法裁判所―判決と意見〈第1巻(1948‐63年)〉 』 波多野里望、松田幹夫著 国際書院
 『史的解明 独島(竹島)・日本語版』 シン・ヨンハ著 インター出版
 『世界の領土・境界紛争と国際裁判』 金子利喜男著 明石書店

 

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