2008年7月30日水曜日

『東国文献備考』が典拠した文書の追跡と「于山島=竹島」に改竄される過程

『東国文献備考』が典拠した文書の追跡と「于山島=竹島」に改竄される過程 傑作(7)
2008/7/27(日) 午前 9:37竹島問題歴史 Yahoo!ブックマークに登録


 韓国が竹島を領土の一部とするもう一つの根拠に、1770年に書かれた『東国文献備考』という史料があります。その一篇の輿地考(よちこう)の中に「輿地志に云う、鬱陵、于山、皆于山国の地。于山は則ち倭の所謂松島なり」という記述を受けて、于山島が日本の松島(=昔の竹島の呼び名)であるとして、日本より古い文献に于山島の名があるので、歴史的に竹島は韓国固有の領土であるというわけです。問題となるのは、于山島という島が日本の松島、今日の竹島を指しているのかどうか、つまり、『東国文献備考』の記述(分註)が正しいのかどうかです。
 ですが、この『東国文献備考』は、例の記述の分註に引用される際に改ざんされています。その過程を検証したいと思います。

 『東国文献備考』百四十巻は、英祖の命により、古今の文物制度の典拠を網羅する目的で編纂されました。『東国文献備考』の編纂が本格的に始められたのは、李潭、金応淳、洪名漢、徐浩修、申景濬などが編者に命じられた英祖四十六年(1770年)正月十一日以後のことで、英祖四十六年(1770年)閏五月に編纂事業を終え、同年八月に刊行されました。
 したがって、編纂期間は僅か5ヶ月ほどで、異常に短い。百巻以上の大部になる編纂事業であるのに、編纂から出版まで半年で終えられたのは、既存の文献を収集し再編集するだけであると考えられます。

 したがって、安龍福の記事を載せた『東国文献備考』の分註にも典拠としたオリジナルが存在していました。
 では、『東国文献備考「輿地考」』に記載された鬱陵島関連の記事は、どのような文献を典拠にして編纂されたかが問題になります。その原典は、『英祖実録』の英祖四十六年(1770年)閏五月十六日条に依れば、「輿地考」の底本には、編者である申景濬の『旅菴全書』(1756年)の「彊界考」が使われています。では、「彊界考」の鬱陵島に関する記事はというと李孟休の『春官志』を典拠としています。
 
 また、『東国文献備考』の記事と、『春官志』の「鬱陵島争界」を比較してみると、『東国輿地勝覧』や『世宗実録「地理志」』と記事が重複する部分を除くと、多少の潤色が加えられていますが、数句を除いて『春官志』の本文と一致します。

 それでは、肝心の部分を、それぞれに比較してみます。
まず『東国文献備考』では「輿地志に謂う、鬱陵、于山皆于山国の地。于山は即ち倭の所謂松島なり」とあり、原本の『春官志』の鬱陵島の註では「蓋しこの島、その竹を産するを以ての故に竹島と謂い。三峯ありてか三峯島と謂う。于山、羽陵、蔚陵、武陵、磯竹島に至りては、皆、音号転訛して然るなり」原本の『春官志』では、確かに于山島を鬱陵島の別称としています。
 一方で申景濬の「彊界考」では、「按ずるに、輿地志に云う、【一説に于山、鬱陵本一島】而るに諸図志を考えるに、二島なり。一つは則ちその所謂松島にして、蓋し二島は倶に是れ于山国なり」

 ここでの問題は、申景濬の「彊界考」の記述が、すべて柳馨遠の『輿地志』からの引用かどうかであります。この柳馨遠の『輿地志』が、日本側の呼称「松島」という地名を知っていたかどうかが問題なのです。しかし、柳馨遠の『輿地志』は現存していません。それゆえに引用された箇所を確認する事は出来ません。そして『東国文献備考』の編纂期間が僅か5ヶ月と短いために、その『輿地志』から正確に引用されたかどうかも不明です。

 安龍福が拿捕されたのは1693年、柳馨遠の『輿地志』は安龍福の証言よりも40年ほど早い1656年に成立、米子の大谷甚吉は、鳥取藩に竹島(鬱陵島)への渡海を願い出たのは1617年。現時点では韓国の史料で「松島」という島名が出てくるのは、安龍福に関する『粛宗実録』(1728年)からです。現況では、柳馨遠の『輿地志』より前に「松島」と言う呼称が朝鮮に知られていたと言う事を示す史料はなく、『輿地志』に松島という文言が出てくることは有り得ません。よって、2行目の「而る」に以後の記述は申景濬自身の私見ということになります。

 さらに、冒頭の「按ずるに」は、「考えをめぐらすに・思うに」という意味です。ですから「按ずるに、輿地志に云う~」と書くと「思うに輿地志に言うところの一説には于山、鬱陵は元々は一島である」ということになり、「而るに」に繋がります。そして、2行目以降で『輿地志』の一説とは反対の説を唱えているのだから、「而るに」は逆接の接続詞で使われている事も分かります。

 もし、「而るに~」以後の言葉も輿地志からの引用だとすれば「按ずるに」という冒頭の言葉は、どこにも繋がらなくなります。「引用した文についての考えを巡らしてみて、結論はどうだったのか」そのつながりは、どこにもない事になります。

 このことで、申景濬が柳馨遠の『輿地志』から引用したのは、「一説に于山、鬱陵本一島」だけであり、「而るに」以下は、申景濬の私見であることが分かるのです。

 また、原典の柳馨遠の『輿地志』では、「一説に于山、鬱陵本一島」と、【于山島と鬱陵島は同じ島の別の呼び方(同島異名)がある】としているだけで、松島(=現在の竹島)のことには、全く言及していないことも分かってきます。申景濬は、古地図や文献に于山島や鬱陵島が描かれていることを理由にして、『輿地志』の字句を改めて、于山島と鬱陵島を別々の島=二島と按じています。

 さらに申景濬は、安龍福の供述である「于山は則ち倭の所謂松島なり」と言う語句を、まるで『輿地志』の説であるかのように挿入して、于山島を松島と臆断して、それを于山国に入れているのです。于山島は断じて竹島ではありません。

 韓国政府が竹島の領有権を主張する根拠とした『東国文献備考』の分註は、こうして改竄されたものであったです。


 

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