2010年2月7日日曜日

小さな針を棒大に現す



竹島考証上の4頁に次のとおりです。

 竹島は●無人の荒島にして、70余年間我人民の海利を壇せしも、元禄中往復の後其の鬱陵島たるを知り、之を彼に還したるを以って、今や彼の国の古史に就き、其の大略を掲げ、上世韓地の歴属たりし時の状を知らしむ。
 東国興地勝照覧巻首の八道総図中、江原道の海中に2島あり、西を于山と云い東を鬱陵と云う。●我所謂松島竹島の2島なるか。
 興地勝覧の説に拠れば、鬱陵島在江原道一名武陵 一名羽陵 在蔚珍県正東 三峯及業掌空 南峯梢卑 風日清則 峯頭樹木 及山根沙渚 歴々可見 風便則二日可到


 私の意訳は次のとおりです。

 元禄期に、日朝交渉があり、日本名「竹島」・朝鮮名「鬱陵島」が1島2名であると確認し、之を朝鮮に還した。今、該島への版図外指令を受け、該島がダジュレー島であるか、それともアルゴノート島であるかの確認が急がれている。
 そこで、八道総図を見るに、于山が西に、鬱陵が東に描かれている。これは、于山島=アルゴノート島(竹島)と捉え、鬱陵島=ダジュレー島(松島)と捉えるべきなのであろうか。
 又、興地勝覧を見るに、「鬱陵島・・・風日清則峯頭樹木及山根沙渚歴々可見」と記載されている。半島とダジュレー島の距離を考えれば、半島で日常生活を送っている者がダジュレー島の「峯頭樹木」を見ることは出来ない。半島の高地に登れば「峯頭樹木」を見る事はできようが、「山根沙渚」を見ることはできないだろう。すると、「鬱陵島=ダジュレー島」の説は否定せざるを得ない。
 更に、磯竹島略図を見ると、福浦竹島間は120里であり、竹島半島間は50里と記載されている。これは、「竹島=アルゴノート島」の説に合致するものと考えられる。
 しかるに、今般、アルゴノート島は実在しない島であるとの情報が流れている。

 現在、明治政府が求められているのは、速やかなるアルゴノート島の存否確認であり、元禄日朝交渉の対象とした島がダジュレー島であることの確認である。その後にダジュレー島に対する領有方針を決めねばならない。

 尚、田辺太一が、松島は鬱陵島であり、松島は于山島であり、この松島に何かを加えると蔚陵島になる等と意味不明の発言をしているが、無視すべきである。

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