ことこどく デタラメな安龍福の供述 傑作(7)
2008/7/26(土) 午後 0:21竹島問題歴史 Yahoo!ブックマークに登録
安龍福証言の検討の前に、安龍福とは何者かを見て行きます。Wikipediaの文章が分かりやすかったので、それを記載します。
水軍経験のある漁夫。1693年(元禄6年)不法に鬱陵島へ渡り漁労していた時、この島を開発していた日本人に遭遇し日本へ連行される。安龍福はその後朝鮮へ送還されるが、これが発端となり鬱陵島の領有をめぐる日朝間の外交問題に発展した(竹島一件)。三年後に自ら日本へ渡り、鬱陵島と于山島は朝鮮の領土だと訴える。しかし、帰国時朝鮮政府に捕らえられ、日本への不法渡航や訴訟事件を起こしたとして流罪となる。当時日本人の呼ぶ松島(現在の竹島)を于山島だと主張した最初の人物で、現在の竹島問題に発展している。
まずは安龍福の証言が記録されている「粛宗実録」の内容を見てみます。
安龍福は、粛宗二十二年(1696年)五月に日本に密航しますが、その目的は表向きは、鬱陵島と于山島を朝鮮領として日本側に認める事。でも、于山島が松島であると言う彼の発言の真意は不法渡航の罪を免れるための虚言と考えるのが自然です。
しかし、安龍福ら11人は、所期の目的も達せず、自力で帰還、八月二十九日のこと。九月乙亥(九月二日)、安龍福はソウルに連行され、国境問題を管轄する備辺司で推問されることになり、その時の供述調書が「粛宗実録」の粛宗二十二年九月戌寅条に採録されています。
粛宗実録 巻三〇 二十二年九月戊寅
備辺司、推問安龍福等、龍福以為、渠本居東莱、為省母至蔚山、適逢僧雷憲等、
備説頃年往来欝陵島事、且言本島海物之豊富、雷憲等心利之、遂同乗船、
與寧海蒿工劉日夫等、倶発到本島、主山三峰高於三角、自南至北、為二日程、
自東至西亦然、山多雑木、鷹鳥猫倭船亦来泊、船人皆恐、渠倡言欝島本我境、
倭人何敢越境侵犯、汝等可共縛之、仍進船頭大喝、倭言吾等本住松島、偶因漁採出来、
今当還往本所、松島即子山島、此亦我國地、汝敢住此耶、遂拾良翌暁沱舟入子山島、
倭等方列釜煮魚膏、渠以杖撞破、大言叱之、倭等収聚載船、挙帆回去、渠仍乗船追趁、
埣偶狂飆漂到玉隠岐、島主問入来之故、渠言頃年吾入来此処、以鬱陵子山島等、
定以朝鮮地界、至有関白書契、而本国不有定式、今又侵犯我境、是何道理云、
爾則謂当転報伯耆州、而久不聞消息、渠不勝憤椀、乗船直向伯耆州、
仮称欝陵子山兩島監税将、使人通告、本島送人馬迎之、渠服青帖裏、着黒布笠、穿及鞋、
乗轎、諸人並乗馬、進往本州、渠興島主、対坐廳上、諸人並下坐中階、島主問何以入来、
答曰、前日以兩島事、受出書契、不啻明白、而対馬島主、奪取書契、中間偽造、
数遣差倭、非法横侵、吾将上疏関白、歴陳罪状、島主許之、遂使李仁成、構疏呈納、
島主之父、来懇伯耆州曰、若登此疏、吾子必重得罪死、請勿捧入、故不得禀定於関白、
而前日犯境倭十五人、摘発行罰、仍謂渠曰、兩島既属爾国之後、或有更為犯越者、
島主如或横侵、並作国書、定譯官入送、則当為重処、仍給糧、定差倭護送、
渠以帯去有幣、辞之云雷憲等諸人供辞略同、備辺司啓請、姑待後日、登対禀処、允之。
大意は以下の通りです。
鬱陵島は、山には雑木鷹鳥猫が多く、倭もまた多く来泊していた。
(同行の)船人は皆恐れた。渠(かれ・安龍福)は「鬱陵島は朝鮮領だ。なぜ、倭人は何故、我が領土を侵犯するのか。おまえら皆縛ってしまうぞ」と、さらに、船の舳先に進んで大喝すると、
倭人が吾等に言うには、「我々は、もともとは松島に住んでいて、たまたま漁採のために来ただけで、ちょうど今、本所(松島)に帰ろうとしているところだ。」と答えました。
そこで私は「松島は即ち于山島だ。これも我が朝鮮の地だ。どうして住む事が出来よう」と言ってやりました。
その翌暁、舟を曳いて于山島にはいると、倭人たちは釜を列ねて魚膏を煮ている最中でした。そこで私が杖で撞き破り、大声で叱りつけると、倭人たちはそそくさと辺りの物をまとめて船に載せ、帆を挙げて去っていきました。そこで追いかけたのですが、途中、狂風に遭って隠岐島に漂着しました。
隠岐島では島主が入来の目的を尋ねるので、先に私がこの地に来たとき、鬱陵・于山等の島を朝鮮側の境界とする関白(=将軍)の書付があったはずだが、それが徹底していないようで、今また、我が朝鮮の境界を犯す者がいる。これはどうしたことなのか。鳥取藩に取り次ぐように求めましたが、返答はありませんでした。
そこで憤激した私は、直ちに鳥取藩に向かい、「鬱陵于山両島監税」と仮称して、人を通じて鳥取藩に告げると、鳥取藩では人馬を迎えてくれました。私は駕籠に乗り、他の者は馬に乗って鳥取藩まで往きました。
鳥取藩では、藩主と対座し、諸人は中階に控えておりました。鳥取藩主が「なぜ、参ったのか」と聞くので、「先に両島のことに関しては、書付を出したことは明白ではないか。それなのに、その書付を対馬藩の藩主が奪い取り、朝鮮政府と江戸幕府の間にあって偽りの使臣を送ってよこすのは言語道断である。私としては関白(=将軍)に上疏し、対馬藩の罪状を明白にしたいと思う。」と申しますと、鳥取藩が許すというので、ついに李仁成に書かせました。
すると対馬藩主の父親がやってきて、ねんごろに鳥取藩主に語るには、「もし、この疏文が幕府に渡れば、我が子は必ず重い罪を得て死ぬ事になる。どうか幕府には提出しないで欲しい。」と言うので、幕府には上申しないで、その代わり先日、鬱陵島に渡っていた十五人は、捕らえられて処刑されました。
そこで鳥取藩主が言うのには、「鬱陵島と于山島は既に朝鮮領となったのだから、再び越境する者があったり、対馬藩が無理な要求をしたりしてくれば、国書を作成し、訳官を送ってよこせば重く罰してやろう。」と言い、
帰国に際しては食糧と護衛の使者をつけてやると言ってくれたのですが、差し障りがあると申しまして、お断り致しました。
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