2008年7月30日水曜日

日本の史料検討―隠州視聴合紀

日本の史料検討―隠州視聴合紀 傑作(3)
2008/7/27(日) 午後 0:17竹島問題歴史 Yahoo!ブックマークに登録


 *朝鮮の地図では、竹島を一島としてしか描いていませんが、日本の地図は、二島(西島・東島)及び周辺の岩礁も明確に書かれております。この辺の地図の正確さの違いからも韓国が竹島をほとんど認識し得ていなかったことを表しています。

 古記録の上で、竹島の存在がはっきり明記されたのは寛文七年(1667年)に発行された『隠州視聴合紀』からです。これは、出雲松江藩主(松平出羽守綱隆)の命により、同藩士の斎藤豊仙が編纂したものです。1667年8月、出雲松江藩の齋藤豊仙が隠岐郡代として、約2ヶ月を掛けて隠州(隠岐島)を巡察した際の、「視て」「聴いた」ことを採録した近世隠岐の地理誌(調査報告書)です。この『隠州視聴合紀』の巻一の「国代記」の章において、問題の竹島の記述が含まれています。

 隠州在北海中故云隠岐島、[按倭訓海中言遠幾故名歟]、其在巽地言嶋前也、知夫郡海部郡屬焉、其位震地言嶋後也、周吉郡穩地郡屬焉、其府有周吉郡南岸西鄕豊崎也、従是、南至雲州美穂関三十五里、辰巳至伯州赤碕浦四十里、未申至石州温泉津五十八里、自子至卯、無可往地、戍亥間行二日一夜有松島、又一日程有竹島、[俗言磯竹島多竹魚海鹿、按神書所謂五十猛歟]、此二島無人之地、見高麗如雲州望隠州、然則日本之乾地、以此州為限矣。

 隠岐島は北海(日本海)の中にある。[思うに、大和言葉で海の中を「おき」というので、このように名付けたのだろうか]その南東にある地を島前と言う。知夫郡と海部郡がこれに属する。その東にある地を島後と言う。周吉郡と穏地郡がこれに属する。その府は周吉郡南岸の西郷豊崎である。隠岐島より南、島根県の美保関までは35里。(隠岐島から見て)東南にある鳥取県の赤碕浦までは40里。南西にある島根県の温泉津までは58里。北から東に至る間には、目安となる地がない。北西の間には、二日一夜行くと、松島(現・竹島)がある。さらに、一日の行程のところに竹島(現・鬱陵島)がある。[俗に磯竹島という。竹・魚・アザラシが多い。思うに神書(=日本書紀)に記述のある五十猛の神だろうか。]この松島と竹島の2島は無人島である。そこ(鬱陵島)から朝鮮が見えるのは、ちょうど出雲から隠岐島を遠望するのと同じである。ならば即ち、日本の北西の地は、この州(鬱陵島)をもって境とする。

 斎藤豊仙は『隠州視聴合紀』で、上記のように、北海の中にある隠岐島が、隠岐島から東西南北、それぞれの方向にある日本の領土まで、どれだけの位置にあるかを記述しています。そして、日韓双方がそれぞれ竹島を自国領とする根拠としてきました。それは、巻一の『国代記』には松島(現在の竹島)と竹島(現在の鬱陵島)の二島の名前が見え、その(強引ではあるが)解釈によっては、竹島が韓国領とも解釈出来るからです。

 韓国側は「此の州を以って限りと為す」の部分の此州を隠岐島であるとして、それより北西にある鬱陵島・竹島を日本が領有していないとしたのです。ですが、この韓国側の主張には無理があります。
 一方で、日本は、「然からば即ち、日本の乾(北西)の地、此の州を以て限りと為す」の「此州」を鬱陵島の事と解釈し、それより東にある竹島(当事は松島)は当然、日本領であると解釈しました。齋藤豊仙は、竹島(=鬱陵島)・松島(=竹島)への地理的関係を以下のように説明しています。

 (隠岐島より)戌亥(北西)の間、行2日1夜行けば、松島(現在の竹島)がある。また一日ほどの程で竹島(現在の鬱陵島)がある。これは俗に言う磯竹島のことである。竹や魚・海驢(あしか)が多い。この2島、無人の地である。高麗(朝鮮)を見ること雲州(出雲)から隠州(隠岐島)を望むがごとし。

 問題はこの高麗を望んだ地点とはどこかということです。これは、雲州(出雲)から、隠岐島を見るように、高麗(朝鮮)が見える地点と言うことだから、竹島、鬱陵島、どれかです。この中で、日本領から高麗(朝鮮)が望めるのは、鬱陵島だけです。そのように高麗が見える地点とは、鬱陵島と言うことになります。『隠州視聴合紀』からは、雲州から隠州を見るように、当事日本領であった鬱陵島から高麗(朝鮮)が見えると地理的特性を説明しています。
 そして、然からば即ち、日本の乾(北西)の地、此の州を以て限りと為す(然則日本之乾地、以此州為限矣)、へと繫がります。「然からば」の役割は、雲州(出雲)より隠州(隠岐)を望むように、「竹島(=鬱陵島)」から高麗(朝鮮)が望める事を強調するためにあることからも、「此の州」が鬱陵島を指してるのは間違いありません。

 また、『隠州視聴合紀』が書かれた当時、幕府は鬱陵島を日本領として認識していた(事実、大谷家などが開発に鬱陵島へ渡っている)のに、それをわざわざ鬱陵島を除外して、隠岐島を北西限とするはずもない。齋藤豊仙が鬱陵島を日本領として『隠州視聴合紀』に書くのは当然の事です。

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