1877年3月20日付の太政官指令の「外一島」について 傑作(5)
2008/7/27(日) 午後 1:27竹島問題歴史 Yahoo!ブックマークに登録
上の資料は、太政官の通達で内務省が1877年3月20日付けで出した通達で、
「日本海内竹島外一島~本邦関係無之」とあり、鬱陵島と外一島が朝鮮の領土であることが明記されています。韓国は、ここに載っている、「竹島外一島」の”外一島”を竹島であると主張しています。しかし、その論拠となる積極的な証拠はありません。
日本が1905年に竹島を正式に日本の領土に組み入れるために、様々な調査をしています。1876年(明治九年)10月、内務省地理寮は地籍編纂のため、島根県に対して竹島(鬱陵島)について照会しています。これに対して島根県は、「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」を内務省に提出した。それには、竹島(鬱陵島)と外一島は朝鮮領であるという認識を示した。島根県の報告を受けた内務省は「版図の取捨は重大の事件」であるため、1877年太政官の判断を仰ぐことになりました。その審査では、「本邦関係これ無き義と相心得べき事」として、竹島(鬱陵島)と外一島は日本領ではないと言う結論が下されたのです。
ただ、この太政官の審査は充分とは言えません。なぜなら、「竹島外一島」の「一島」が今日の竹島を指すのか?或いは他の島なのか?判然としません。韓国側が一方的に言っているだけです。もし、その「一島」が今日の竹島ならば、「本邦関係これ無き」とは言いません。
それは江戸時代から日本は松島という名で竹島を呼んでいます。また、松島(現在の竹島)を示す記録や地図も多く残っていますし、それらの記録から日本領と認識しています。そうであるから、松島を放棄するならば、「鬱陵島及び松島」と固有名詞を使用するはずです。
では、なぜ「1877年3月20日付の太政官指令」の文書で、「外一島」と表現したかを考えてみます。即ち、「外一島」と表現する理由は、日本には元々そのような固有名詞がない島だからだと考えられます。つまり、外務省が「松島」と書かないで「外一島」とした島は鬱陵島の属島のどれかであると思われます。鬱陵島には竹嶼以外にも、幾つかの島又は岩礁がありますから。
少なくとも、明治十年三月二十九日の太政官指令だけをもって日本が「北緯37度東経132度付近にある竹島を放棄した」という根拠にはなりません。
仮に日本が「外一島」で竹島の領有権を放棄したと仮定しましょう。この場合でも韓国側の実効的支配の証拠がなければ、無主地になるか未成熟な権原になるだけです。そうであっても、島根県編入で日本が実効的支配をしたことに変わりはありません。
また、1928年のバルマス島事件(オランダとアメリカの争い)の判例から、未成熟な権原よりも、平和的継続的な実行的支配が優先します。日本の竹島編入の実行的支配が「平和的継続的」でないことを証明できなければ、韓国の主張は通りません。立証責任は韓国にあります。
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