2010年02月23日07時40分 / 提供:産経新聞
日本と韓国が互いに領有権を主張する竹島問題で、韓国側が論拠としている「竹島はわが国と関係ない」とする明治政府の文書「太政官指令」の内容は、現在の竹島(韓国名・独島)を示すのではなく、朝鮮半島沖にある「鬱陵島(うつりようとう)」と判断できる島根県の行政文書が見つかったことが22日、竹島問題研究会への取材で分かった。研究者は「韓国側の主張が崩れる貴重な資料」と注目している。
太政官指令は明治10年に作成され、「竹島ともう一つの島はわが国と関係がない」と記述しているため、韓国側は「日本が領有権を放棄した」と主張。しかし、明治政府発行の当時の地図では現在の竹島の位置に何もなく、朝鮮半島沖にある鬱陵島が「竹島」「松島」の2つの名前で書かれていることから、太政官指令での竹島はこれまでも鬱陵島を指すとみられていた。
今回見つかった行政文書は島根県が所蔵し、太政官指令の5年後に作成された明治15年1月31日付の「県治要領」。杉原隆・県竹島研究顧問(71)が当時の外務省関連文書などを調べる過程で見つけた。
この県治要領では、地元の士族が島根県に出した鬱陵島とみられる「松島」の開拓願いについて、内務省が「松島は朝鮮領」として不許可にした経緯を記述。そのなかに「前に指示した通りわが国に関係ない」という趣旨の記述があった。
太政官指令と重なり合う内容であることから、太政官指令で表記された竹島は、県治要領で示す松島、つまり現在の鬱陵島とみられる可能性が一層強まったという。
この問題では現在の竹島が日本領であることを示す19世紀のドイツ製の地図も複数見つかっている。
同研究会座長を務める下條正男・拓殖大教授は「韓国側が太政官指令を頼りにしてきた論拠が崩れた」と評価している。
【主張】竹島の日 「日本領」と明確に発信を
2010.2.22 02:48
このニュースのトピックス:主張
竹島の日の22日、松江市で恒例の記念式典が行われる。島根県が「竹島の日」条例を定めてから5年たつが、今年も政府関係者の出席予定はない。残念である。
この日は、明治38(1905)年、竹島を島根県の所管とする政府の閣議決定に基づく同県告示が出された日だ。歴史的にも法的にも明らかに日本固有の領土でありながら、戦後、独立した韓国の李承晩政権が昭和27(1952)年、竹島(韓国名・独島)を韓国領とする「李ライン」を一方的に設定した。それ以降、韓国が不法占拠を続けている。
領土問題は島根県だけで解決できる問題ではない。国が先頭に立って取り組むべき課題だ。同県によれば、毎年、外相と農水相に招待状を出しているが、一度も出席していないという。大臣の出席が難しいのなら、副大臣か政務官が出席すべきではないか。
最近の日本政府の韓国に対する及び腰の対応も問題である。
平成20年7月、文部科学省は竹島を初めて領土問題として盛り込んだ中学社会科の新学習指導要領解説書を発表した。しかし、当初方針の「我が国固有の領土」と領有権を明記する表現は見送られ、韓国に配慮した表現に後退していた。福田康夫内閣(当時)で内容を調整した結果だった。
それでも韓国は納得せず、駐日韓国大使を一時帰国させるなどの強硬措置を取った。
昨年暮れ、政権交代した鳩山由紀夫内閣の下で発表された高校の指導要領解説書は領土問題について、「竹島」とも明記せず、さらに表現が後退した。
その結果、韓国の対応は軟化し、駐韓日本大使を呼んで遺憾と憂慮の意を表明するにとどまったが、韓国への過度の配慮は国益と主権を損なうものである。
韓国の過剰な反応に比べ、日本の対応はほとんど目立たない。
昨年2月、韓国国防省が発表した国防白書の表紙に、韓国が不法占拠を続ける竹島の写真が初めて使われた。これに対し、日本は駐日韓国大使館の参事官を外務省に呼んで抗議したものの、それを発表していない。「韓国世論を刺激してはいけない」(駐韓日本大使館筋)との理由からだ。
だが、外交ルートの抗議は、内外にはっきり分かる形で示さなければ意味がない。日本は竹島が日本領であることを、もっと明確に国際社会に発信すべきである。
2010年2月24日水曜日
韓国団体、竹島の日、糾弾
韓国で最も権威ある国立中央博物館にも、「独島」を自国領と示す歴史的な地図は無い
2010年02月24日09時35分 / 提供:PJニュース
韓国国立中央博物館に掲示されている15世紀から19世紀にかけての韓国の古地図。(撮影:小田光康)
【PJニュース 2010年2月24日】韓国の首都ソウルにある韓国国立中央博物館を先日、訪れた。内部に韓国領土の歴史的変遷を描いた古地図が展示されている。韓国政府は歴史的に見ても竹島は韓国領の独島だと主張している。これに対して、日本政府は日本の固有領土であり、それを国際司法裁判所で争う姿勢まで示している。
博物館を訪れた際、ふと2月22日の「竹島の日」のことを思い出し、竹島問題で韓国があれだけ騒ぐのだから、韓国国家が威信をかけて建設した博物館には竹島が韓国領だと証明する古地図が展示されていて然るべきだ。そう考えて、竹島が韓国の古地図にはどう描かれているのか、確認した。
記事添付の写真を見ていただきたい。15世紀から19世紀までの古地図なのだが、どれ一つとして「独島」が描かれているものがない。韓国は6世紀に竹島が韓国領に編入されたと主張しているのだが、その後の15世紀から19世紀の500年もの間に渡ってそれを示す地図が一つも無いとは、不思議でならない。韓国でもっとも権威のある博物館に証拠が無いのだから、どこを探しても無いのだろう。
また、おかしなことに、古地図には「独島」などまったく描かれておらず、竹島が韓国領だと示す証拠が無いのだが、その古地図の説明には「韓国の古地図は、独島が韓国領だと雄弁に物語っている」と日本語で記されていた。
韓国政府が竹島を自国領だと主張するのは結構だが、その証拠をきっちりと示してはいかがだろうか。そうであれば、韓国国民の自信はさらに深まるだろうし、日本国民も納得するだろう。そこで国際司法裁判所などの公の舞台で白黒を付けるのが筋ではないか。【了】
パブリック・ジャーナリスト 小田 光康
【韓フルタイム】「竹島の日」今年も日韓で抗議活動相次ぐ
2010年02月23日15時41分 / 提供:韓フルタイム
日本大使館前の抗議活動 写真一覧(2件)昨日22日は島根県が定めた「竹島の日」であった。国の記念日ではないため、よく知らない人もいるのではないかと思うが、日本とは逆に韓国ではこの「竹島の日」の存在について知っている人はとても多い。韓国人からしてみれば、自分の領土であるはずの竹島(韓国名:独島)が日本の記念日として定められている事態は「許されざる事態」であるため、関心を持たざるを得ないようである。
そのため、「竹島の日」が定められた2005年以来、韓国ではこの日が近くなると「竹島の日」の削除を求めてあちこちで抗議活動が勃発する。今年もソウルにある日本大使館前や、釜山、大邱などで抗議デモが起こり、その様子が韓国のテレビなどでは報じられている。
そして22日の当日もやはり、日本大使館前には多くの市民団体が詰めかけた。市民団体「独島義兵隊」は、「日本が一方的に独島を島根県に編入させたので無効」「『竹島の日』は廃止すべき」と主張し、市民団体「我々の広場」は、「在大韓民国日本大使館のホームページから竹島問題を削除しろ」「ホームページに記載しても、国際連合憲章に記されている主権平等原則から逸脱している」と強く批判。日本政府と島根県を糾弾する激しい抗議活動が行われた。
そして、抗議活動は韓国だけでなく日本でも行われた。
「独島守護市民連帯」という市民団体は、島根県の現地で抗議活動を行おうとしたので、騒動にまで発展している。この市民団体は、「竹島の日」記念行事を阻止するため日本に団体員6人を派遣し、島根県の松江市にある島根県県民会館の正門前で抗議デモを行おうとした。
しかし、右翼との衝突を憂慮した県警により、近くの島根県県庁厚生会館に一時隔離されることに。団体員らは会館1階にある事務室の中で警察に見守られながら「武力による日韓強制併合へ謝罪しろ。反省して『竹島の日』を直ちに削除しろ」とデモを行ったそうだ。
韓国の団体員らが宿舎に移動しようとした際には、右翼団体が団体員に向かってシャベルを投げつけるなど、一時緊張状態にもなったと伝えられている。県警のおかげで直接的な衝突は起こらずに済んだようだが、来年以降もこのような事態は続きそうである。
一方、松江市では「竹島の日」記念式典が行われ、国民新党の亀井亜紀子参院議員をはじめ自民党からは8人が出席し、過去最多の国会議員が出席した。
韓国団体, 島根県で '竹島の日' 糾弾
| 記事入力 2010-02-22 17:25 | 最終修正 2010-02-22 18:02
独島守護市民連帯日本でデモ (東京=連合ニュース) ツェゼイック会長(マゴザに紫色襟巻き) など独島守護市民連帯会員たちが 22日午後島根(島根)現松江(松江)時にある島根県県庁厚生官で島根県公務員たちに至ったところ '竹島の日'を直ちに廃棄する要求しながら代置するある. 2010.2.22 << 独島守護市民連帯提供 >> photo@yna.co.kr
(東京=連合ニュース) 載せる特派員 = 韓国市民団体会員たちが日本島根(島根)現が決めたいわゆる '竹島の日'(2月22日)を迎え島根県で抗議デモを起こして日本右翼団体会員になる摩擦をもたらした.
ツェゼイック(54) 代表議長など独島守護市民連帯会員 6人は 22日午後 1時頃島根県松江(松江)時にある島根県県民会館正門の前でデモを起こそうとしたが日本右翼団体会員になる衝突を泣こうと思った日本警察によって近所にある島根県県庁厚生官に隔離された.
このために催議長などはドアが掛かった厚生官 1階事務室の中で日本警察が見守る中に "無力に恣行された韓日強制併合をお詫び.反省する竹島の日を直ちに廃棄する"と主張するデモを着でばなければならなかった.
独島守護市民連帯によれば宿所に移動しようと島根県庁を抜ける時日本右翼団体会員の投げたシャベルが催議長などが焼けたワゴン車に当たる落ちた位に雰囲気が刺刺しかった.
一方島根県はこの日午後 1時から松江(松江)時県民会館ナカホルであらかじめ募集した 150人が参加した中に '竹島.北方領土返還要求運動県民大会'を開いた.
島根県は 1905年 2月22日 '北緯 37度9分30秒, 東京 131度55分にいる島を竹島と呼ぶ本現Oki道士(隠岐島司)の所管で決める'と言う内容の考試をしたことを記念して 100年がすぎた 2005年から毎年 2月22日を言ったところ '竹島の日'で決めて記念式を開催する独島守護市民連帯会員たちは 2005年から毎年島根県でデモをするある.
韓国市民団体, 仕事右翼団体と衝突 (東京=連合ニュース) 22日午後日本島根(島根)現松江(松江)時にある島根県県民会館正門の前でデモを起こそうとしていた韓国市民団体独島守護市民連帯会員たちが弾乗合車に日本右翼団体会員たちが寄り集まると日本警察が阻むある. 2010.2.22 << 独島守護市民連帯提供 >> photo@yna.co.kr
chungwon@yna.co.kr
竹島の日' 阻止 日 抗議訪問団派遣
(ソウル=連合ニュース) 金恋心記者 = 独島守護全国連帯は日本島根県主観で 22日開かれる '竹島(竹島. 独島の日本式表現)の日' 記念行事を沮止するために抗議訪問団を派遣する事にしたと 19日明らかにした.
独島守護連帯はこの日午前鍾路区在韓日本大使館の前で記者会見を開く "日本は 100年前韓日強制併合と韓半島殖民支配で朝鮮の収奪と虐殺を事としておくこれを謝罪する賠償するどころか侵略社を歪曲, 美化して私たち固有領土である独島を奪おうと思う"と糾弾した.
引き継ぐ "2005年に竹島の日を不法制定して公布したことは第2の韓半島侵略のための宣戦布告でバッアドルヨジンダ"と "韓・日両国の友好関係を造成しようとすれば竹島の日を廃棄する独島さんだつ陰謀と歴史歪曲を直ちに中断する"と要求した.
ツェゼイック代表など 6人でクリョジン抗議訪問団は 21日日本島根県に出国して 22日島根県民会館の前で糾弾大会を開く現知事に抗議書簡を伝達する計画だ.
yjkim84@yna.co.kr
<著作権者(c)連合ニュース. 無断転載-栽培砲金誌.> 2010/02/19 11:50 送稿
独島義兵台 '竹島の日' 糾弾記者会見
(ソウル=連合ニュース) 金恋心記者 = 独島義兵台は 22日午後 '竹島(竹島. 独島の日本式表現)の日'を迎えソウル鍾路区在韓日本大使館の前で記者会見を開く "独島の島根県編入を取り消す島根県の行事と広報を直ちに中断する"と促した.
また "日本は世界地図で独島を竹島で歪曲したことを独島でドルリョノッゴ学生たちに独島を日本のだと教えることを白紙化しなければならない"と主張した.
団体はこの日声明(名前)で "無男独女惜しむ愛するように韓民族の独島住んだ見せてくれる 1905年独島侵略で始まった悲劇がまた再現されないようにしようと国会, 釜山, 大邱, 島根県等地で同時多発的に行事を開いた"と言った.
引き継ぐ "私たちは独島を奪おうとする日本を罵る恨むより我が領土を大事にすることができなかった過ちを国民自ら見回り願う"と "感情的な非難より理性的な末路, 大きい音で主張するより説得力ある言葉で世界人に大韓民国独島を紹介する日本である自ら独島が韓国のなのを認めるようにしようと思う"と付け加えた.
yjkim84@yna.co.kr
<著作権者(c)連合ニュース. 無断転載-栽培砲金誌.> 2010/02/22 17:26 送稿
"自民党幹部 '竹島の日' 行事場所訪問"
(東京=連合ニュース) 最だ特派員 = 独島が日本の領土と主張する日本島根(島根)現が来る 22日開催するいわゆる '竹島(竹島.日本が主張する独島名称)の日' 制定記念行事にIshiharaノ-ブテで(石原伸晃) 自民党組職部長が参加する事にしたと教徒(共同)通信が 9日伝えた.
今度行事は 5回目だが自民党幹部が党を代表して参加することは初めてだ. 自民党は与党だった去年まで中央党次元ではこの行事に議員たちを派遣しなかった.
行事には自民党の訴えだHiroyuki(細田博之) 私は幹事長, Aokiミキオ(青木幹雄) 前参院議員会長なども参加する. 民主党議員は過去一度もこの行事に参加したことがないし今度にも参加予定である議員はない.
島根県は 2005年 3月に現条例を制定, 2月 22日を '竹島の日'で決めた.
choinal@yna.co.kr
<著作権者(c)連合ニュース. 無断転載-栽培砲金誌.> 2010/02/09 17:17 送稿
万機要覧 元禄交渉の決着
龍福還泊襄陽、告于官、且獻 在伯耆時呈太守文、以證前事。
諸從者一一 納供、如龍福言、無異辭。
龍福は、襄陽に帰って、管に報告して、
また伯耆州にいる時に太守に送った書状を献じて、前のことを証明した。
また龍福に従っていった者たちも、龍福の陳述と一致していた。
於是倭知不可 復誑、抵書來府、謝曰、
不敢復造人 至鬱陵、是時、由龍福發、故倭疾之、以龍福行不由 馬島 爲罪。
かくして倭人たちは、これ以上、欺くことができないと知り、書簡を東莱府に送って謝って言うには
「二度と人を鬱陵島に行かせないだろう」と。
この時にその内容が龍福によってばれたということが分かって
倭人は彼を憎んで、龍福が行く時に「対馬を経由しないで行った」という事を言いがかりにして罪人にした。
奮約、有自馬島 向釜山一路以外皆禁之文故也。
昔の条約に、「対馬から釜山に向かう一路以外には、どんな道も禁ずる」があったからだ。
朝議皆 以 龍福罪 當斬、獨領
敦寧尹趾完・領中樞・南九萬謂、殺之、適足 快馬島憤、且其人桀點、非碌者、
宜留爲 他日用、乃流之。
朝廷の議論では、皆が、龍福は斬刑にあたると言ったが、
敦寧府・領中樞の南九万だけは、
「彼を殺すことは、対馬の憤りを拭ってやることになる。
そして龍福は傑出していて、低劣な者ではない。
適切に彼を生かして、後日に使えるようにするべきだ」と主張して、流刑にとどめた。
倭至今 不復指 鬱陵爲日本地、皆龍福功也。
日本が今に至るまで、鬱陵島は日本の地だと主張できないのは、すべて安龍福の功績だ。
柳成龍答。皇朝将書曰、
東海一邊、自慶尚左道 達于江道 達于咸鏡道、皆傍海之地。
南海多島嶼、東海無島嶼、且水性悍急、不利行。
故自前賊兵雖不無犯境之時、而不常有之。
〈柳成龍所論〉
柳成龍が、皇朝将に送った答書で、
「東海一辺、慶尚左道より江原道に至り、江原道咸境道に達するまで、すべて海に面した地である。
南海には多くの島々が、東海には島々がなくて、また波潮流が急で、船が航行するには不便である。
だから賊兵たちが国境を侵犯する時がないわけではないが、常にあるわけではない」と書いた。
万機要覧 安龍福
東莱人 安龍福は櫓軍に属していて、日本語がうまかった。
肅宗 19年(1693年) 夏、海に入って漁をしていると、漂流して鬱陵島に到った倭の船に遭遇した。
つかまって日本の五浪島につれていかれて、
龍福は隠島主に言った。「鬱陵島から我が国までは一日の道程であり、日本との距離はは五日程の長さだから、鬱陵島は我が国に属さないのではないか?朝鮮人が朝鮮の地へ行ったのに、何故に拘束するのか?」と言った。
島主は、彼を屈服させることができないと解って、伯耆州に送った。
伯耆州の太守は、彼を厚遇して銀幣を与えた。
龍福は受けとらないで言うには、「私は日本が鬱陵島のことで悶着を起こさないことが望みである」と言った。
太守は遂に関白に報告して、「鬱陵島は日本の領土ではない」という書類を作って授けた。
彼は長崎島を経由して対馬へ行った。
島主は対馬島の党(黨)として、書類を見せるように求めてきたので、書類を見せたら、書類を奪って還さず、龍福を対馬島に送った。
この時、対馬の島主は、関白の命として、鬱陵島について争った。
其の実際は関白の命ではなかった。
鬱陵島には魚と竹が豊富にあり、倭人たちはその利権を占めようと思ったことであり、
また、倭が派遣した遣いが我が国へ来れば朝廷で彼らを手厚く待偶したせいで、倭は彼らの往来が止まなかった。
彼らは龍福がそれらの企みか全部暴露されるのを恐れて、長い間拘禁したし、東莱に押送しても倭館に閉じこめて、前後 90日後に釈放した。
龍福が府使に言ったが、結局報告しなかった。翌年、接慰官が東莱へ来た時にも、龍福はまたこのことを訴えた。しかし、朝廷はこれを信じなかった。その後も、派遣された倭人が何回来て紛争を起こしそうだったが、我国の人は憂えたりしたが、対馬の偽りを知ることはなかった。
龍福は憤慨して、蔚山の浜辺に行き、商僧の雷憲ら等の船が停泊していた。龍福が彼らを誘って言うには、「鬱陵島には海菜が多く、吾は汝らのために、その道を指し示して導く」というと、彼らは喜んでこれに従った。
三昼夜かかって鬱陵島に着いた。
倭の船が東よりやってきた。
龍福は、多くの人に目配せして、「倭人たちを縛れ」と言ったが、船人たちは怖くてできなかった。
龍福ひとりが前に出て怒鳴って言った。「何故、我が領土を犯すか?」
すると、倭人が答えるには、「もともと松島に向かう途中だったので、いまから行くところだ」。
龍福は松島まで追いかけていって、また怒鳴って言うには、
「松島は、すなわち于山島(芋山島)だ。
于山島が我らの領土だという言葉が聞こえなかったか?」と言いつつ、
杖棒を振り回して釜を砕いたら、倭人たちはとても驚いて逃げてしまった。
さらに龍福は伯耆州に行ってその事実を伝えたら、太守は彼らを悉く捕まえて治めた。
龍福は、自分は「鬱陵島監税官」だと偽って称して、
升堂に上がって太守に抗礼して、大きい声で言った。
「対馬が中に入って欺いているのは鬱陵島問題だけではない。」
「我が国が送った物品を、対馬は日本に転売して、ごまかしをすることが多い。」
「米は 15斗が1斛なのに、対馬は7斗1斛にする。
布は30尺が 1疋なのに、対馬では20尺で1疋にする。
紙 1束ならとても長いはずなのに、対馬では切って3束にする。
関白がこんな内容を知れば、どうするだろうか?
「私のために、書簡を関白に伝達することができないだろうか」と言った。
太守はこれを許し、ちょうど対馬の島主の父が、江戸に在る。
この大事を聞いて、太守に哀願して、
「この書簡が、朝に幕府に入ったなら、夕方には私の息子は死ぬだろう」
太守は帰ってきて、龍福には、
「書状を上げる必要がないから、速く対馬に帰りなさい」
「さらにまた国境問題が争われたなら、使者を送って書状を携えて来なさい」と言った。
肅宗 19年(1693年) 夏、海に入って漁をしていると、漂流して鬱陵島に到った倭の船に遭遇した。
つかまって日本の五浪島につれていかれて、
龍福は隠島主に言った。「鬱陵島から我が国までは一日の道程であり、日本との距離はは五日程の長さだから、鬱陵島は我が国に属さないのではないか?朝鮮人が朝鮮の地へ行ったのに、何故に拘束するのか?」と言った。
島主は、彼を屈服させることができないと解って、伯耆州に送った。
伯耆州の太守は、彼を厚遇して銀幣を与えた。
龍福は受けとらないで言うには、「私は日本が鬱陵島のことで悶着を起こさないことが望みである」と言った。
太守は遂に関白に報告して、「鬱陵島は日本の領土ではない」という書類を作って授けた。
彼は長崎島を経由して対馬へ行った。
島主は対馬島の党(黨)として、書類を見せるように求めてきたので、書類を見せたら、書類を奪って還さず、龍福を対馬島に送った。
この時、対馬の島主は、関白の命として、鬱陵島について争った。
其の実際は関白の命ではなかった。
鬱陵島には魚と竹が豊富にあり、倭人たちはその利権を占めようと思ったことであり、
また、倭が派遣した遣いが我が国へ来れば朝廷で彼らを手厚く待偶したせいで、倭は彼らの往来が止まなかった。
彼らは龍福がそれらの企みか全部暴露されるのを恐れて、長い間拘禁したし、東莱に押送しても倭館に閉じこめて、前後 90日後に釈放した。
龍福が府使に言ったが、結局報告しなかった。翌年、接慰官が東莱へ来た時にも、龍福はまたこのことを訴えた。しかし、朝廷はこれを信じなかった。その後も、派遣された倭人が何回来て紛争を起こしそうだったが、我国の人は憂えたりしたが、対馬の偽りを知ることはなかった。
龍福は憤慨して、蔚山の浜辺に行き、商僧の雷憲ら等の船が停泊していた。龍福が彼らを誘って言うには、「鬱陵島には海菜が多く、吾は汝らのために、その道を指し示して導く」というと、彼らは喜んでこれに従った。
三昼夜かかって鬱陵島に着いた。
倭の船が東よりやってきた。
龍福は、多くの人に目配せして、「倭人たちを縛れ」と言ったが、船人たちは怖くてできなかった。
龍福ひとりが前に出て怒鳴って言った。「何故、我が領土を犯すか?」
すると、倭人が答えるには、「もともと松島に向かう途中だったので、いまから行くところだ」。
龍福は松島まで追いかけていって、また怒鳴って言うには、
「松島は、すなわち于山島(芋山島)だ。
于山島が我らの領土だという言葉が聞こえなかったか?」と言いつつ、
杖棒を振り回して釜を砕いたら、倭人たちはとても驚いて逃げてしまった。
さらに龍福は伯耆州に行ってその事実を伝えたら、太守は彼らを悉く捕まえて治めた。
龍福は、自分は「鬱陵島監税官」だと偽って称して、
升堂に上がって太守に抗礼して、大きい声で言った。
「対馬が中に入って欺いているのは鬱陵島問題だけではない。」
「我が国が送った物品を、対馬は日本に転売して、ごまかしをすることが多い。」
「米は 15斗が1斛なのに、対馬は7斗1斛にする。
布は30尺が 1疋なのに、対馬では20尺で1疋にする。
紙 1束ならとても長いはずなのに、対馬では切って3束にする。
関白がこんな内容を知れば、どうするだろうか?
「私のために、書簡を関白に伝達することができないだろうか」と言った。
太守はこれを許し、ちょうど対馬の島主の父が、江戸に在る。
この大事を聞いて、太守に哀願して、
「この書簡が、朝に幕府に入ったなら、夕方には私の息子は死ぬだろう」
太守は帰ってきて、龍福には、
「書状を上げる必要がないから、速く対馬に帰りなさい」
「さらにまた国境問題が争われたなら、使者を送って書状を携えて来なさい」と言った。
万機要覧 元禄の日朝交渉
肅宗 19年(1693年)に、対馬島の太守・平義信が漂流民 2人を押し還しながら、礼曹曰く「貴域の漁民が、本国竹島に船に乗って入って来たが、極めて到るべきではない地である。だから地方官が国禁の法を詳しく教えてあげたのに、今また国禁を顧みないで、漁民40余人が竹島に入ってきて雑然と漁をして採る。士官はその漁民 2人安龍福と朴於屯を拘留して、州司に人質として、その時の証拠にしようとしたのだ。私、因幡州の牧は、前後の事情を総合して、東都に報告したら、その漁民を弊邑で引き受けて、本国に返還しなさい、という令を受けた。本人は私たちの殿下が広く民を愛することが遠近違うことがないので、過去は咎めないで、ただ恩恵を施して、 2人の漁民を彼らの故国に返したのだ。
この事は関係が重大だから、両国はどうして不意の事態に対して気づかわないこともあるか?
辺浦に、速くまた言い付けて、禁止條項を堅く守って、隣国との睦まじさを長く続けることが良いことと思う。
答えて曰く、「弊国は、海上の禁令が非常に厳格であり、東海の民が、外洋に出ることはない。鬱陵島が我らの領土であり、またはるかに遠くにあるからという理由でも、決して自由に往来すること許していないし、ましてその外だというのか?
今私たちの漁船たちが貴国の領土である竹島に入ったことに対して、送還する手間をする隣国の好意には、実にありがたく感じるところだ。
海民の漁で、風浪に会って漂流する事がないでもないが、海を渡って深く入って行ったことに対しては、法に基づいて懲戒しなければならないでしょう。今まさに、犯人たちは法によって罪を律せられる」と言った。
この時、接慰官・洪重夏が東莱府に至って、答書を伝達したら、
派遣された倭人が言うには、「竹島のことを論じて、何をもって鬱陵島を言うのか?」と言った。
歴官は答えるのを、「我が国もまた、海上の禁止事項を厳格に明らかにするためだ」と言ったら
倭人が言うには 「鬱陵島が貴国の領土であることはよく分かるが、壬辰の乱の後には、日本の所になり、人が占拠していると貴国の 《芝峯類説》に書いてあるのではないか?」と言った。
首席歴官・朴再興が言うには「芝峯類説の中には誠にその言葉がある。しかし、あるこれにあるからといって、それを絶対にそのように見てはいけない。壬辰の乱の時に、日本兵が我が境の中に深く入って来て、西方では平安道に至ったし、北では咸境道まで至った。大小の海岸地方の郡邑たちは、皆、乱の兵に占領されたところ、鬱陵一島もそうではない。どうして壬辰乱の時に乱の兵たちが占拠したことをもって言うのか?
類説の所論を援用することはできない。
さらに文士の一時的な漫筆で何を明らかに証明するになるか」と言った。
1694年に対馬島太守・平義信が、礼曹判書に書簡を送って言うには、「この前、本国の竹島に入って来た貴国の漁民を送還したのに対した、貴国の答書には、鬱陵島の名が入っていたが、これは理解することができない。鬱陵島という名称を消してください。云云.」と言った。
1695年に、対馬島の倭人・橘真重が、竹島に対する疑問点 4條を東莱部に書信をあげた。
1696年には対馬島奉行の倭人・平義信ら六人が連名して、我が国の歴官・卞 宋の両人に書信を送った。その一論では竹島にのことに論議であり、一つは安竜福がの行動した事件を論じたものだった。この時の朝廷の世論は、「一つの空き地のことで、争うのは正しくない」 としたが、ただ領議政・南九万だけは、「領土は祖宗で受け継いでいるのだから、与えることはできない」と した。さらに「この島は、高麗が新羅の時から得て、わが朝廷が高麗から得たものであり、元々、日本の地ではない」と言ったことから、
この行き来が止んだ。
武臣・張漢相を審議中の鬱陵島に派遣した。この時から法を定めて 3年に一回、その島を調査することにした。管で斧を与えて、その竹と若木切って15袋、また土物を採取して、政府に納めることとして、信とをするようにした。三陟営将及び越松 万戸が交賛にここに入った。
この事は関係が重大だから、両国はどうして不意の事態に対して気づかわないこともあるか?
辺浦に、速くまた言い付けて、禁止條項を堅く守って、隣国との睦まじさを長く続けることが良いことと思う。
答えて曰く、「弊国は、海上の禁令が非常に厳格であり、東海の民が、外洋に出ることはない。鬱陵島が我らの領土であり、またはるかに遠くにあるからという理由でも、決して自由に往来すること許していないし、ましてその外だというのか?
今私たちの漁船たちが貴国の領土である竹島に入ったことに対して、送還する手間をする隣国の好意には、実にありがたく感じるところだ。
海民の漁で、風浪に会って漂流する事がないでもないが、海を渡って深く入って行ったことに対しては、法に基づいて懲戒しなければならないでしょう。今まさに、犯人たちは法によって罪を律せられる」と言った。
この時、接慰官・洪重夏が東莱府に至って、答書を伝達したら、
派遣された倭人が言うには、「竹島のことを論じて、何をもって鬱陵島を言うのか?」と言った。
歴官は答えるのを、「我が国もまた、海上の禁止事項を厳格に明らかにするためだ」と言ったら
倭人が言うには 「鬱陵島が貴国の領土であることはよく分かるが、壬辰の乱の後には、日本の所になり、人が占拠していると貴国の 《芝峯類説》に書いてあるのではないか?」と言った。
首席歴官・朴再興が言うには「芝峯類説の中には誠にその言葉がある。しかし、あるこれにあるからといって、それを絶対にそのように見てはいけない。壬辰の乱の時に、日本兵が我が境の中に深く入って来て、西方では平安道に至ったし、北では咸境道まで至った。大小の海岸地方の郡邑たちは、皆、乱の兵に占領されたところ、鬱陵一島もそうではない。どうして壬辰乱の時に乱の兵たちが占拠したことをもって言うのか?
類説の所論を援用することはできない。
さらに文士の一時的な漫筆で何を明らかに証明するになるか」と言った。
1694年に対馬島太守・平義信が、礼曹判書に書簡を送って言うには、「この前、本国の竹島に入って来た貴国の漁民を送還したのに対した、貴国の答書には、鬱陵島の名が入っていたが、これは理解することができない。鬱陵島という名称を消してください。云云.」と言った。
1695年に、対馬島の倭人・橘真重が、竹島に対する疑問点 4條を東莱部に書信をあげた。
1696年には対馬島奉行の倭人・平義信ら六人が連名して、我が国の歴官・卞 宋の両人に書信を送った。その一論では竹島にのことに論議であり、一つは安竜福がの行動した事件を論じたものだった。この時の朝廷の世論は、「一つの空き地のことで、争うのは正しくない」 としたが、ただ領議政・南九万だけは、「領土は祖宗で受け継いでいるのだから、与えることはできない」と した。さらに「この島は、高麗が新羅の時から得て、わが朝廷が高麗から得たものであり、元々、日本の地ではない」と言ったことから、
この行き来が止んだ。
武臣・張漢相を審議中の鬱陵島に派遣した。この時から法を定めて 3年に一回、その島を調査することにした。管で斧を与えて、その竹と若木切って15袋、また土物を採取して、政府に納めることとして、信とをするようにした。三陟営将及び越松 万戸が交賛にここに入った。
万機要覧 慶長の日朝交渉
光海七年 倭差船二隻 謂将探 竹島形止
且曰 島在慶尚・江原之間
朝廷悪其猥越 不許接待 只令
光海君 7年(1615年)に、倭人が2隻の船を送って、
「磯竹島の状況を、将に探りにきた」と言う
「島が慶尚道と江原道の間にある」と言って、阻止した。
朝廷は、その猥越を憎んで、接待することを許さず。
東莱府使朴慶業答書曰
足下非不知此島之横占
乃欲 越窺
是誠何心恐非隣好之道
東莱府使・朴慶業に答書して曰く、
「貴下は、この島を横占しようとしているのを、分からないはずはないなのに、
他人の地を窺うとは何の心なのか?
これは善隣友好の道理がないようだ。
所謂 竹島 実我国之鬱陵島也
介於慶尚・江原海洋
載在輿地 焉可誣也
謂うところの竹島は、実に我が国の鬱陵島である。
慶尚道と江原道の海の間にあり、
輿地誌に載っているで、欺くことはできない。
盖自羅・麗以来取考方物 逮 至我朝屡刷逃民
今雖廃棄豈可容他人胃居乎
前日復書 今以前日復書之説観之 前已有所往復也
新羅・高麗の時以来、物産を受け入れたし、本朝は、逃民をつれもどしている。
今廃棄していたといえども、他人が居住することをどうして受け入れられようか。
今回の答書は、前に往復した書簡とその説く処は同じである。
已悉梗 貴島 宜瞿然改図
而今乃直以解纜発船為言
不幾於軽朝廷而昧道理乎
もう、その大略を明らかにしたから、
貴島は、明らかに反省しなさい。
しかして、今すぐに船を出発させるのであれば
これは我が朝廷を軽んじ、道理に暗いと判断せざるを得ない。
貴島於我国往来過行 惟有一路 譬若門戸
貴島が我が国を往来するのは、ただ一つの道があるだけだ。
譬えて門戸のようだ。
此外 無論漂船 皆以賊船論断
弊鎭沿海将官 惟知厳守約束 而已 不知其他
この外に漂流する船は論無く皆賊船と断ずる。
鎭沿海の将官は、ただ厳しく約束を守ることを知っているだけで、他のことは知らない。
惟貴島審區土之有 別知 界限之難侵格
守信義努力自勗、免致謬 戻尚克有終裁
だから貴島は、領土と言う区別があることを察して、
領界を侵犯することはできないということを知って、
信義を守り、謬を犯さないようにして
有終の美を飾りなさい。」と言った。
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