2010年2月24日水曜日
万機要覧 慶長の日朝交渉
光海七年 倭差船二隻 謂将探 竹島形止
且曰 島在慶尚・江原之間
朝廷悪其猥越 不許接待 只令
光海君 7年(1615年)に、倭人が2隻の船を送って、
「磯竹島の状況を、将に探りにきた」と言う
「島が慶尚道と江原道の間にある」と言って、阻止した。
朝廷は、その猥越を憎んで、接待することを許さず。
東莱府使朴慶業答書曰
足下非不知此島之横占
乃欲 越窺
是誠何心恐非隣好之道
東莱府使・朴慶業に答書して曰く、
「貴下は、この島を横占しようとしているのを、分からないはずはないなのに、
他人の地を窺うとは何の心なのか?
これは善隣友好の道理がないようだ。
所謂 竹島 実我国之鬱陵島也
介於慶尚・江原海洋
載在輿地 焉可誣也
謂うところの竹島は、実に我が国の鬱陵島である。
慶尚道と江原道の海の間にあり、
輿地誌に載っているで、欺くことはできない。
盖自羅・麗以来取考方物 逮 至我朝屡刷逃民
今雖廃棄豈可容他人胃居乎
前日復書 今以前日復書之説観之 前已有所往復也
新羅・高麗の時以来、物産を受け入れたし、本朝は、逃民をつれもどしている。
今廃棄していたといえども、他人が居住することをどうして受け入れられようか。
今回の答書は、前に往復した書簡とその説く処は同じである。
已悉梗 貴島 宜瞿然改図
而今乃直以解纜発船為言
不幾於軽朝廷而昧道理乎
もう、その大略を明らかにしたから、
貴島は、明らかに反省しなさい。
しかして、今すぐに船を出発させるのであれば
これは我が朝廷を軽んじ、道理に暗いと判断せざるを得ない。
貴島於我国往来過行 惟有一路 譬若門戸
貴島が我が国を往来するのは、ただ一つの道があるだけだ。
譬えて門戸のようだ。
此外 無論漂船 皆以賊船論断
弊鎭沿海将官 惟知厳守約束 而已 不知其他
この外に漂流する船は論無く皆賊船と断ずる。
鎭沿海の将官は、ただ厳しく約束を守ることを知っているだけで、他のことは知らない。
惟貴島審區土之有 別知 界限之難侵格
守信義努力自勗、免致謬 戻尚克有終裁
だから貴島は、領土と言う区別があることを察して、
領界を侵犯することはできないということを知って、
信義を守り、謬を犯さないようにして
有終の美を飾りなさい。」と言った。
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