1471年5月、金漢京等は、三峯島で島人に会った。
1475年5月、金漢京等は、三峯島に近づいたが、上陸しなかった。
1476年6月、金漢京の言は信用できない。信用できる者を送って再捜査させよう。
1476年10月、金自周の報告を受けた。三峯島の特徴を絵に描いてきた。白衣の30余人を見た。
これらの事から、朝鮮の官吏が三峯島に上陸したのは1475年が最後で、次の上陸が1694年であることが判る。
戦後の韓国は、金自周が報告した三峯島の状況は、リャンコ島であると言う。しかし、金自周は鬱陵島に行くことを命じられていたのであるから、三峯島の状況を報告した筈であり、それがリャンコ島の状態に似ていたとすれば、朝廷も金自周もリャンコ島の状態を知らなかったことを意味する。
◎ 1476-06-22 金漢京は三峯島に至らず
下書永安道觀察使李克均曰:
今見卿啓,
知鏡城金漢京等二人, 辛卯五月漂泊三峯島, 與島人相接,
又於乙未五月, 漢京等六人向此島, 距七八里許, 望見阻風, 竟不得達。
此言雖不可信, 亦或非妄, 今宜別遣壯健可信人三人同漢京等, 入送搜覓。
◎ 1476-10-22 金自周は白衣の30余人を見た
永安道觀察使李克均馳啓: “永興人金自周言: ‘往見三峯島, 且圖其形。’ 送自周以進。” 命問之, 自周對曰: “於鏡城海濱乘舟, 行四晝三夜, 見島屹然, 而有人三十餘, 列立島口, 有烟氣。 其人衣白, 形貌遠不能詳, 然其大概乃朝鮮人也, 懼見執, 不能進也。” 賜襦衣二領。
◎ 1476-10-27 成宗 金自周は島の北に三石列立
兵曹啓: “永興人金自周供云: ‘
本道觀察使, 以三峯島尋覓事, 遣自周及宋永老與前日往還金興、金漢京、李吾乙亡等十二人, 給麻?船五隻入送,
去九月十六日於鏡城地瓮仇未發船向島, 同日到宿富寧地靑巖, 十七日到宿會寧地加隣串, 十八日到宿慶源地末應大,
二十五日西距島七八里許, 到泊望見, 則於島北有三石列立, 次小島, 次巖石列立, 次中島, 中島之西又有小島, 皆海水通流。
亦於海島之間, 有如人形別立者三十, 因疑懼不得直到, 畫島形而來。’
臣等謂往年朴宗元由江原道發船, 遭風不至而還, 今漢京等發船於鏡城瓮仇未, 再由此路出入, 至畫島形而來, 今若更往, 可以尋覓。 請於明年四月風和時, 選有文武才者一人入送。” 從之。
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