2010年2月16日火曜日

朝鮮の古地図が示す勅令41号の範囲



◎ 李乾夏 請議書
 勅令41号には、内部大臣がした請議書がありました。その請議書に、鬱島郡守の管轄範囲が「縦が80里ほど、橫は50里」と記されています。
 この根拠を古地図から探ってみました。元データは、GTOMRさんのサイトです。
 結論として、竹島一件の直後から朝鮮は、チェクトを含んだ鬱陵島を「東西が80里ほど、南北は50里」と認識していたことが明らかです。この認識が、内部大臣がした請議書に引継がれ、勅令41号になりました。



◎ 「青砥圖」 1834
 最初に思い浮かぶのは、1834年作成の青砥圖です。青砥圖は、チェクトを含んだ鬱陵島を概ね東西80里、南北50里程度に記述しています。




◎ 朴昌錫「鬱陵島圖形」 1711
 1711年に作成された「鬱陵島圖形」は捜討官による鬱陵島圖であるが、「周面量可二百餘里 自東至西八十餘里 自南至北五十餘里」と記されている。




◎ 「八道與地圖」 18世紀中旬
 18世紀中旬に作成された「八道與地圖」は欝陵島圖と物産が掲載されているが、その物産欄に「周面二百餘里 東西八十餘里 南北五十餘里」と記されている。




◎ 「輿地圖」 1736-67年
1736-67年に作成された「輿地圖」(4709-68)には、鬱陵島図と物産が掲載されているが、その物産欄に「周面二百餘里 東西八十餘里 南北五十餘里」と記されている。




◎ 「廣與図」 1737-76年
1737-76年に作成された『廣與図』には、鬱陵島図と物産が掲載されているが、その物産欄に「周面二百餘里 東西八十餘里 南北五十餘里」と記されている。




◎ 「海東地図」 1750's
1750'sに作成された「海東地図」には、鬱陵島圖と物産が掲載されているが、その物産欄に「周面二百餘里 東西八十餘里 南北五十餘里」と記されている。




◎ 『地乘』江原道
『地乘』江原道〈奎 15423〉には、鬱陵島図と物産が掲載されているが、その物産欄に「周面二百餘里 東西八十餘里 南北五十餘里」と記されている。




東京山川 八道地圖 1800年代以前(推定)



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