1769-10-14
領議政洪鳳漢奏曰: “
聞鬱陵島産人蔘, 商買潛入採之,
倭人若知之, 恐有爭桑之患矣。”
仍請曰: “
我國文獻不足, 今於鬱陵島事, 無所考證。
自今博採前後文蹟, 作一冊子, 以爲事大交隣文字好矣。”
上允之。
1769-10-16
命提調元仁孫, 與曾經三陟營將解事者, 圖畫鬱陵島峰巒形勝物産以入。
1769-11-29
又啓: “
鬱陵島地近倭境, 故物産之禁其私取者, 法意甚嚴,
而近聞本島蔘貨, 遍行傍邑, 多有現發屬公者云。
地方官之矇然不察, 極爲駭然。 請三陟府使徐魯修拿問嚴處。”
從之。
1769-12-09
命遞江原監司洪名漢。
初, 鬱陵島有潛商之採蔘者, 三陟營將洪雨輔?執,
而多有醜謗。
事覺, 雨輔坐貶, 至是名漢以交關參?,
掌令元啓英上疏論劾曰:“
鬱陵禁令, 何等嚴重,
而乃者江原監司洪名漢, 與其族武三陟營將洪雨輔, 暗地交關,
募人潛入, 採取人蔘, 多至累數十斤。
及其現發於地方官, 則犯禁之民, 刑配道?, 屬公之蔘, 還給私賣, 仍又曲引他事,
?罷本官, 要爲彌縫之計, 此已是難貸之罪也。
論其罪犯, 實浮於營將, 而薄譴但止於營將, 誅罰不及於名漢。
國法之不行, 誠非細故, 日後之弊, 亦不可不慮。
臣以爲江原監司洪名漢, 亟施削職之典可也。”
疏入, 上以挾雜責諭, 不許。
復以問於大臣, 領議政洪鳳漢以爲. “名漢必引嫌。” 上命遞之。
問誰可代者, 鳳漢薦徐命善,
上曰: “吾相定矣。”
1770-01-04 引見江原監司徐命善, 禁鬱陵島採蔘。
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