2010年2月21日日曜日
其東又有于山島亦広潤
其東又有于山島亦広潤
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2007/12/1861.html
英宗十一年 江原監司趙最壽啓言 盃(鬱)陵島地廣土沃有人居田他 而其西又有于山島 亦廣闊云 則所謂西字與此各之在東相佐
.「于山島=竹嶼」を文献で初めて実証
山陰中央新報、2008.1.19
日韓両国が領有権を主張する竹島(韓国名・独島)をめぐり、韓国側が竹島の古い名称
と主張する于山島が、現在の韓国・ 鬱陵島の北東に隣接する竹嶼(ちくしょ)であるこ
とを示す記述が、朝鮮時代の文献にあることが分かった。島根県の竹島問題研究会が古地
図を基に指摘する 「于山島は竹島ではなく竹嶼」との主張が、文献で実証されたのは初
めて。・・・・・
日省録の鬱陵島周辺を調査した役人による一八〇七年の報告書の中に、鬱陵島の北に于
山島があり、周囲は二、三里(韓国里で八百-千二百メートル)、との内容を示す「北有
于山島周回為二三里許」の記述があった。
【半月城さんコメント】 日省録に于山島が欝陵島の北にあると記されているのなら、著者はそのよ
うな認識であったと理解すべきで、これを無理に欝陵島の「東」にあるチュクト(韓国
名:竹島)に関連づけるのは強引すぎる。19世紀、于山島を欝陵島の北に描いた地図に
は江原道『八路地圖』などがある。
http://www.han.org/a/half-moon/hm131.html
江原監司の金履喬が、順天等三村の守令が鬱陵島への密航船に警告しなかった罪を諭した事を報告
四月初七日に本島に到着し宿泊しました。島の形状をあまねく調査したところ、左に黄土窟右に屏風石があり、黄土仇味より中峯まで三十里位でした。そして山々がそびえ立ち清らかで冷たい泉の水のある所に人家の跡と田や畑として耕作可能な土地があり四十余りの石落となっていました(石落、意味不明)。傍らには香木亭があり香木が削って置いてあり、又捕らえたアシカの皮も置いてありましたがこれは密航船のしわざでした。北に向かって十里余りの海中に中央に舟の通れる穴のある石が聳え立っていて其の名をを孔巖といいます。そして錐山巖に向かっていきました。この巖はきりが立っているような形をしていました。南には天底仇味があり、谷の入り口は奥深く十里余りありました。北には于山島があり一周二三里(800m~1200m)ほどの大きさでした。南に行き着いた所に都庄仇味があり谷の入り口から奥のほうまで立ち入ってみると竹林がありましたが密航船によって乱雑に叩き切られていました。(現代語訳:yabutarou)
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