2010年2月24日水曜日
万機要覧 元禄交渉の決着
龍福還泊襄陽、告于官、且獻 在伯耆時呈太守文、以證前事。
諸從者一一 納供、如龍福言、無異辭。
龍福は、襄陽に帰って、管に報告して、
また伯耆州にいる時に太守に送った書状を献じて、前のことを証明した。
また龍福に従っていった者たちも、龍福の陳述と一致していた。
於是倭知不可 復誑、抵書來府、謝曰、
不敢復造人 至鬱陵、是時、由龍福發、故倭疾之、以龍福行不由 馬島 爲罪。
かくして倭人たちは、これ以上、欺くことができないと知り、書簡を東莱府に送って謝って言うには
「二度と人を鬱陵島に行かせないだろう」と。
この時にその内容が龍福によってばれたということが分かって
倭人は彼を憎んで、龍福が行く時に「対馬を経由しないで行った」という事を言いがかりにして罪人にした。
奮約、有自馬島 向釜山一路以外皆禁之文故也。
昔の条約に、「対馬から釜山に向かう一路以外には、どんな道も禁ずる」があったからだ。
朝議皆 以 龍福罪 當斬、獨領
敦寧尹趾完・領中樞・南九萬謂、殺之、適足 快馬島憤、且其人桀點、非碌者、
宜留爲 他日用、乃流之。
朝廷の議論では、皆が、龍福は斬刑にあたると言ったが、
敦寧府・領中樞の南九万だけは、
「彼を殺すことは、対馬の憤りを拭ってやることになる。
そして龍福は傑出していて、低劣な者ではない。
適切に彼を生かして、後日に使えるようにするべきだ」と主張して、流刑にとどめた。
倭至今 不復指 鬱陵爲日本地、皆龍福功也。
日本が今に至るまで、鬱陵島は日本の地だと主張できないのは、すべて安龍福の功績だ。
柳成龍答。皇朝将書曰、
東海一邊、自慶尚左道 達于江道 達于咸鏡道、皆傍海之地。
南海多島嶼、東海無島嶼、且水性悍急、不利行。
故自前賊兵雖不無犯境之時、而不常有之。
〈柳成龍所論〉
柳成龍が、皇朝将に送った答書で、
「東海一辺、慶尚左道より江原道に至り、江原道咸境道に達するまで、すべて海に面した地である。
南海には多くの島々が、東海には島々がなくて、また波潮流が急で、船が航行するには不便である。
だから賊兵たちが国境を侵犯する時がないわけではないが、常にあるわけではない」と書いた。
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