
上図は、1辺12km程で描いた正方形の中に鬱陵島を置いたものです。
李氏朝鮮は、與地図の様に円形に描いた地図を残しています。
又、靑邱圖の様に横長の鬱陵島を描いた地図も残しています。
1881年の地図は、縦長だったでしょうか。
さて、
勅令41号請議書 該島の地方は縦が80里ほど、橫は50里という。
鬱島郡の配置顛末 東西が60里である。南北が40里なので
とありますから、
1900年の朝廷は、鬱陵島を縦長と解し、
1906年の朝廷は、鬱陵島を横長と解していたことが判ります。
大韓帝国は、鬱陵島の形を正確には把握していなかったと認められます。
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