2010年2月24日水曜日
万機要覧 高麗朝
高麗太祖庚寅、
土頭貢處、授使白吉爵、
以土頭為正朝
高麗太祖 13年庚寅930年に、
土着民の頭が来て、貢ぎ物をすると、彼に「白吉」と言う職位を与えて、
土着民の頭を正朝とした。
顕宗壬戌、
島民被女真寇掠、逃来者多、處之禮州為編戸。
顕宗 13年壬戌(1021年)に、
島民らが、女真族の寇で掠奪にあって逃げて来た者が多く、礼州の戸籍に編入した。
徳宗壬申、
島主遣、箕子夫於仍多郎来貢。
徳宗 壬辰(1032年)に、
島主は、その息子・夫於仍多郎を送って朝貢した。
仁宗已未、
溟州道首倉使 李陽実 入島、
取菓核・木葉異常者
以居民、遣溟州首倉 金柔立 往視。
仁宗 17年已未 (1139年)に、
溟州道の首倉使・李陽実が島に入って、
果物の菓・核・異常な木の葉を取って来て献じた。
毅宗己卯
王聞 島中地広土肥 可以居民 遣溟州首倉金柔立往視
毅宗 13年已卯(1159年)に、王はこの島が地が広くて、土が肥えていて、
民を住まわすことができることを聞いて、溟州の首倉・金柔立を派遣して視察させた。
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欲復為縣囘
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回奏云、
島有有大山、自山頂 東距海 一萬余歩、
西距海 一萬三千余歩、南距海 一萬五千余歩、北距海 一萬余歩。
有村落墟 七所、破礎尚存、有石佛・石塔・鐵鍾、
地多巌石 人不可居
遂寝其議
帰って来て報告するには、
「島には大きい山があり、山頂から東方の海までの距離は10,000余歩、
西の海の方の距離 13,000余歩、南の海の方の距離 15,000余歩、北の海まで距離が 10,000余歩。
村落の廃墟が七箇所ある。壊れた礎が尚存在していて、石佛・石塔・鉄鍾がある。
地には岩石が多くて、人が住むことはできない。」
遂に中止した。
後崔忠献 以本島土壌膏沃、多珍木海錯、
遣使 移本郡民 以實之。
後為風濤所 盪舟覆、人多物故、因還其民。
後に崔忠献が、この島の土壌が肥沃で、多くの珍木や海産物があると言って、
使者を派遣して、本郡の住民を移そうとしたが、
何回も風濤に会って船が転覆してしまい、多くの人が死んだ。
その民をもとのところ還した。
高元之際、本國叛臣 李樞 等 告于、元以鬱陵島 多珍在之材。
元遣使入島 欲伐木 以納。
上表陳乞、得止。
高宗・元宗の時に、本国に叛臣した李樞などが、
「鬱陵島には物珍しい材木が多い」と告げたので、
元は人を派遣し入島させ、材木を切って上納させようと欲したが、
文を書いて陳乞いしたので止めさせた。
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