2010年2月22日月曜日
李朝太宗の「鬱陵島」認識
1403-08-11 太宗 6卷, 3年
命出江陵道武陵島居民于陸地。 從監司之啓也。
于山島を含まない武陵島の居民を陸地に出すように命令した。
1407-03-16 太宗 13卷, 7年
對馬島守護宗貞茂, 遣平道全, 來獻土物, 發還俘虜。
貞茂請茂陵島欲率其衆落徙居,
上曰: “若許之, 則日本國王謂我爲招納叛人, 無乃生隙歟?”
南在對曰: “倭俗叛則必從他人, 習以爲常, 莫之能禁, 誰敢出此計乎?”
上曰: “在其境?, 常事也, 若越境而來, 則彼必有辭矣。”
対馬が茂陵島を欲しがったが、これを断った。
1412-04-15 太宗 23卷, 12年
命議政府議處流山國島人。
江原道觀察使報云:
“流山國島人白加勿等十二名, 求泊高城於羅津, 言曰:
‘予等生長武陵, 其島?人?十一, 男女共六十餘, 今移居本島。
是島自東至西自南至北, 皆二息, 周回八息。
無牛馬水田, 唯種豆一斗出二十石或三十石, 麥一石出五十餘石;
竹如大椽; 海錯果木皆在焉。’
竊慮此人等逃還, 姑分置于通州、高城、杆城。”
刷出命令は、武陵島に対してのものであったので、流山國島人を名乗る者が現れた。流山國島には60余人が住むと言う。
1416-09-02 太宗 32卷, 16年
以金麟雨爲武陵等處安撫使。
戸曹參判朴習啓:
“臣嘗爲江原道都觀察使, 聞
武陵島周回七息, 傍有小島, 其田可五十餘結。
所入之路, 纔通一人, 不可竝行。
昔有方之用者率十五家入居, 時或假倭爲寇。
知其島者, 在三陟, 請使之往見。”
上可之, 乃召三陟人前萬?金麟雨, 問武陵島事,
麟雨言: “三陟人李萬嘗往武陵而還, 詳知其島之事。”
?召李萬。
麟雨又啓: “
武陵島遙在海中, 人不相通, 故避軍役者, 或逃入焉。
若此島多接人, 則倭終必入寇, 因此而侵於江原道矣。”
上然之
以麟雨爲武陵等處安撫使, 以萬爲伴人, 給兵船二隻、抄工二名、引海二名、火?火藥及糧,
往其島, 諭其頭目人以來。 賜麟雨及萬衣笠靴。
金麟雨を「武陵等」の安撫使にした。
しかし、「武陵島」の説明は為されているが、「武陵等」の説明は為されていない。「武陵等」が何を指すのかこの時点では明らかではない。
1417-02-05 太宗 33卷, 17年
按撫使金麟雨還自于山島,
獻土産大竹、水牛皮、生苧、綿子、檢樸木等物, 且率居人三名以來。
其島戸凡十五口, 男女?八十六。
麟雨之往還也, 再逢颶風, 僅得其生。
「武陵等」按撫使の金麟雨が「于山島」から還ってきた。「于山島」には、男女86人が住むと報告した。
ここで、「武陵等」の「等」が「于山島」であったことが判明する。
しかし、「武陵等」按撫使の金麟雨が、「武陵島」についての報告を全くしないのが不思議だ。朝廷は「武陵島」の報告を聞きたいと考えないのも不思議だ。
1417-02-08 太宗 33卷, 17年
命右議政韓?敬、六曹、臺諫, 議刷出于山、武陵居人便否,
僉曰: “武陵居人, 勿令刷出, 給五穀與農器, 以安其業, 仍遣主帥撫之, 且定土貢可也。”
工曹判書?喜獨不可曰: “勿令安置, 依速刷出。”
上曰: “刷出之計是矣。
彼人等曾避役安居, 若定土貢, 有主帥, 則彼必惡之, 不可使之久留也。
宜以金麟雨仍爲安撫使, 還入于山、武陵等處, 率其居人出陸。”
仍賜衣笠及靴, 且賜于山人三名各衣一襲。
命江原道都觀察使, 給兵船二隻, 選揀道?水軍萬?千?中有能者, 與麟雨同往。
于山武陵から刷出することの便否を議論した。官員を送って納税させる案も出たが否決された。そして、金麟雨を再度派遣して刷出することが決まった。又、于山人3名には衣を与えた。
1403年の王命は、その適否を1417年に議論できる程度のものであった様だ。
1416年に「武陵等」であった目的の島が、1417年には「于山武陵等」に変っている。しかも。「等」であった「于山」が頭にきている。
兵船二隻で、刷出することが出来るのだろうか。83人もの多くの人を乗せられるとは思えない。
特別に、有能者を選抜して送らねばならない理由がない。
1417-08-06 太宗 34卷, 17年 倭寇 于山、武陵。
結局、金麟雨の再派遣は実施されなかったのだろう。
そうしている内に、于山武陵は倭に寇された。
金麟雨を「武陵等」の安撫使にして、半島の東に2島在る事が確認された。普通は、新たに発見した島を後に付けるが、本件では、理由は不明だが、新たに発見した島を頭に付け、「于山武陵等」の安撫使という職が設けられた。
この「于山・武陵」の2島は人が住める豊潤な島である。しかし、官吏を配し、税金を採るほどの島ではないが、多くの税金を使って刷出するに値する島であり、倭寇が出現する島である。
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