東莱人 安龍福は櫓軍に属していて、日本語がうまかった。
肅宗 19年(1693年) 夏、海に入って漁をしていると、漂流して鬱陵島に到った倭の船に遭遇した。
つかまって日本の五浪島につれていかれて、
龍福は隠島主に言った。「鬱陵島から我が国までは一日の道程であり、日本との距離はは五日程の長さだから、鬱陵島は我が国に属さないのではないか?朝鮮人が朝鮮の地へ行ったのに、何故に拘束するのか?」と言った。
島主は、彼を屈服させることができないと解って、伯耆州に送った。
伯耆州の太守は、彼を厚遇して銀幣を与えた。
龍福は受けとらないで言うには、「私は日本が鬱陵島のことで悶着を起こさないことが望みである」と言った。
太守は遂に関白に報告して、「鬱陵島は日本の領土ではない」という書類を作って授けた。
彼は長崎島を経由して対馬へ行った。
島主は対馬島の党(黨)として、書類を見せるように求めてきたので、書類を見せたら、書類を奪って還さず、龍福を対馬島に送った。
この時、対馬の島主は、関白の命として、鬱陵島について争った。
其の実際は関白の命ではなかった。
鬱陵島には魚と竹が豊富にあり、倭人たちはその利権を占めようと思ったことであり、
また、倭が派遣した遣いが我が国へ来れば朝廷で彼らを手厚く待偶したせいで、倭は彼らの往来が止まなかった。
彼らは龍福がそれらの企みか全部暴露されるのを恐れて、長い間拘禁したし、東莱に押送しても倭館に閉じこめて、前後 90日後に釈放した。
龍福が府使に言ったが、結局報告しなかった。翌年、接慰官が東莱へ来た時にも、龍福はまたこのことを訴えた。しかし、朝廷はこれを信じなかった。その後も、派遣された倭人が何回来て紛争を起こしそうだったが、我国の人は憂えたりしたが、対馬の偽りを知ることはなかった。
龍福は憤慨して、蔚山の浜辺に行き、商僧の雷憲ら等の船が停泊していた。龍福が彼らを誘って言うには、「鬱陵島には海菜が多く、吾は汝らのために、その道を指し示して導く」というと、彼らは喜んでこれに従った。
三昼夜かかって鬱陵島に着いた。
倭の船が東よりやってきた。
龍福は、多くの人に目配せして、「倭人たちを縛れ」と言ったが、船人たちは怖くてできなかった。
龍福ひとりが前に出て怒鳴って言った。「何故、我が領土を犯すか?」
すると、倭人が答えるには、「もともと松島に向かう途中だったので、いまから行くところだ」。
龍福は松島まで追いかけていって、また怒鳴って言うには、
「松島は、すなわち于山島(芋山島)だ。
于山島が我らの領土だという言葉が聞こえなかったか?」と言いつつ、
杖棒を振り回して釜を砕いたら、倭人たちはとても驚いて逃げてしまった。
さらに龍福は伯耆州に行ってその事実を伝えたら、太守は彼らを悉く捕まえて治めた。
龍福は、自分は「鬱陵島監税官」だと偽って称して、
升堂に上がって太守に抗礼して、大きい声で言った。
「対馬が中に入って欺いているのは鬱陵島問題だけではない。」
「我が国が送った物品を、対馬は日本に転売して、ごまかしをすることが多い。」
「米は 15斗が1斛なのに、対馬は7斗1斛にする。
布は30尺が 1疋なのに、対馬では20尺で1疋にする。
紙 1束ならとても長いはずなのに、対馬では切って3束にする。
関白がこんな内容を知れば、どうするだろうか?
「私のために、書簡を関白に伝達することができないだろうか」と言った。
太守はこれを許し、ちょうど対馬の島主の父が、江戸に在る。
この大事を聞いて、太守に哀願して、
「この書簡が、朝に幕府に入ったなら、夕方には私の息子は死ぬだろう」
太守は帰ってきて、龍福には、
「書状を上げる必要がないから、速く対馬に帰りなさい」
「さらにまた国境問題が争われたなら、使者を送って書状を携えて来なさい」と言った。
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