皇城新聞1906年7月13日
鬱島郡の配置顛末
統監府から内部に公照された江原道三陟郡管下に所在する鬱陵島の所属島嶼と郡廳設始月を示明せよとの故に答酬され、光武二年五月二十日に鬱陵島統監として設證され、光武四年十月二十五日に政府会議を経由して郡守を配置したが、郡廳は台霞洞に在し、該郡所管島はチュク島と石島である。東西が六十里である。南北が四十里なので、合せて二百余里だという。
出展:杉野洋明さんのプログ
http://ameblo.jp/nidanosuke/entry-10059918345.html
http://ameblo.jp/nidanosuke/entry-10109934218.html
「統監府から内部に公照された」きっかけは、「鬱陵報告内部」という皇城新聞の記事でしょう。しかし、そのアクションが同時に為されたか否かは不明です。
韓国政府に公照する前に、日本がした行為の実態と意味を知る必要がありますから、事の顛末が明らかになった後に公照すると思います。これに、どの位の時間が必要かが問題です。
部下を東京に派遣して問合せると、島根県も訪れる必要がありますから、1ヶ月が必要と考えられ、事の顛末が判明するのは5月末になります。この結果を得てから公照した場合、5月20日の指令3号には影響を与えなかったことになります。6月中旬に公照し、7月13日の直前に回答を得たとすれば、日程的には、最も合理的な推論となります。
当時は、日露戦争遂行の為に設置された電信網があったので、これを利用して東京と通信することが可能であったかも知れません。この場合、数日で、ことの顛末が判明したかも知れません。
又、朝鮮統監行為は、微妙な感覚の均衡が必要ですから、東京から多くの情報が伝達され、又、山陰新聞を読んでいたかも知れません。この場合、数日で、ことの顛末が判明したかも知れません。
もし、皇城新聞の記事から遅くない時期に韓国政府に公照したのであれば、7月13日の記事内容を意識して5月20日に指令3号を発したと考えられます。
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