take_8591 said...
柳美林氏は「鬱島郡の配置顛末」の「東西が60里・南北が40里」を鬱陵島の大きさを示すもので、鬱島郡の大きさを示したものではないと反論します。この反論は、無理があると思いますが、韓国人はその正当性を信じているのではないでしょうか。
すると、柳美林氏は本請議書に対しても、同じ反論を試みると考えます。即ち、「本請議書の該当部分は、島を郡に昇格させる必要性を述べるに当り、鬱陵島の概要を述べたに止まり、郡の管轄範囲を述べたものではない。」と
又、相当昔から本請議書を独島学会がWeb公開しているので、柳美林氏は本請議書を承知の上で杉野洋明さんへの反論を書いたと考えられます。
>該島・・・に島監を設置して・・・該島の地方は縦が80里ほど、橫は50里という。
この「縦80里・橫50里」の主語である「該島」とは何でしょうか。狭い順に、鬱陵島、島監の管轄範囲、郡守の管轄範囲が考えられます。文理解釈上、「該島に島監を設置」と読み取れる部分があるので、「該島」を島監の管轄範囲と捉えるのが合理的で、他の部分との矛盾も生じません。
次に、郡守の管轄範囲は、島監の管轄範囲から大幅に変ったのでしょうか。もし、リャンコ島が郡守の管轄範囲に入ったとすれば、その横幅は、50里から300里程に大きく変化することになります。これほど大きな変化があったのに、その事に言及せず、「縦80里・橫50里」の文言を入れるのは、非常に不適切であると考えます。
更に、本請議書から、李乾夏が漁業に全く興味を示していないことが分ります。漁業に興味を示さない李乾夏は、何を以って、リャンコ島編入の必要性を訴えたのでしょうか。李乾夏がリャンコ島編入の必要性を全く考えていなかったと捉えるのが合理的です。
以上、「縦80里・橫50里」は島監の管轄範囲を示すものであるが、島監と郡守に管轄範囲の変化があったと読み取ることが出来ません。又、石島は、郡守の管轄範囲内で適当な島を選べば良いだけの事です。
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10:44 AM
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