2010年02月23日07時40分 / 提供:産経新聞
日本と韓国が互いに領有権を主張する竹島問題で、韓国側が論拠としている「竹島はわが国と関係ない」とする明治政府の文書「太政官指令」の内容は、現在の竹島(韓国名・独島)を示すのではなく、朝鮮半島沖にある「鬱陵島(うつりようとう)」と判断できる島根県の行政文書が見つかったことが22日、竹島問題研究会への取材で分かった。研究者は「韓国側の主張が崩れる貴重な資料」と注目している。
太政官指令は明治10年に作成され、「竹島ともう一つの島はわが国と関係がない」と記述しているため、韓国側は「日本が領有権を放棄した」と主張。しかし、明治政府発行の当時の地図では現在の竹島の位置に何もなく、朝鮮半島沖にある鬱陵島が「竹島」「松島」の2つの名前で書かれていることから、太政官指令での竹島はこれまでも鬱陵島を指すとみられていた。
今回見つかった行政文書は島根県が所蔵し、太政官指令の5年後に作成された明治15年1月31日付の「県治要領」。杉原隆・県竹島研究顧問(71)が当時の外務省関連文書などを調べる過程で見つけた。
この県治要領では、地元の士族が島根県に出した鬱陵島とみられる「松島」の開拓願いについて、内務省が「松島は朝鮮領」として不許可にした経緯を記述。そのなかに「前に指示した通りわが国に関係ない」という趣旨の記述があった。
太政官指令と重なり合う内容であることから、太政官指令で表記された竹島は、県治要領で示す松島、つまり現在の鬱陵島とみられる可能性が一層強まったという。
この問題では現在の竹島が日本領であることを示す19世紀のドイツ製の地図も複数見つかっている。
同研究会座長を務める下條正男・拓殖大教授は「韓国側が太政官指令を頼りにしてきた論拠が崩れた」と評価している。
【主張】竹島の日 「日本領」と明確に発信を
2010.2.22 02:48
このニュースのトピックス:主張
竹島の日の22日、松江市で恒例の記念式典が行われる。島根県が「竹島の日」条例を定めてから5年たつが、今年も政府関係者の出席予定はない。残念である。
この日は、明治38(1905)年、竹島を島根県の所管とする政府の閣議決定に基づく同県告示が出された日だ。歴史的にも法的にも明らかに日本固有の領土でありながら、戦後、独立した韓国の李承晩政権が昭和27(1952)年、竹島(韓国名・独島)を韓国領とする「李ライン」を一方的に設定した。それ以降、韓国が不法占拠を続けている。
領土問題は島根県だけで解決できる問題ではない。国が先頭に立って取り組むべき課題だ。同県によれば、毎年、外相と農水相に招待状を出しているが、一度も出席していないという。大臣の出席が難しいのなら、副大臣か政務官が出席すべきではないか。
最近の日本政府の韓国に対する及び腰の対応も問題である。
平成20年7月、文部科学省は竹島を初めて領土問題として盛り込んだ中学社会科の新学習指導要領解説書を発表した。しかし、当初方針の「我が国固有の領土」と領有権を明記する表現は見送られ、韓国に配慮した表現に後退していた。福田康夫内閣(当時)で内容を調整した結果だった。
それでも韓国は納得せず、駐日韓国大使を一時帰国させるなどの強硬措置を取った。
昨年暮れ、政権交代した鳩山由紀夫内閣の下で発表された高校の指導要領解説書は領土問題について、「竹島」とも明記せず、さらに表現が後退した。
その結果、韓国の対応は軟化し、駐韓日本大使を呼んで遺憾と憂慮の意を表明するにとどまったが、韓国への過度の配慮は国益と主権を損なうものである。
韓国の過剰な反応に比べ、日本の対応はほとんど目立たない。
昨年2月、韓国国防省が発表した国防白書の表紙に、韓国が不法占拠を続ける竹島の写真が初めて使われた。これに対し、日本は駐日韓国大使館の参事官を外務省に呼んで抗議したものの、それを発表していない。「韓国世論を刺激してはいけない」(駐韓日本大使館筋)との理由からだ。
だが、外交ルートの抗議は、内外にはっきり分かる形で示さなければ意味がない。日本は竹島が日本領であることを、もっと明確に国際社会に発信すべきである。
2010年2月24日水曜日
韓国団体、竹島の日、糾弾
韓国で最も権威ある国立中央博物館にも、「独島」を自国領と示す歴史的な地図は無い
2010年02月24日09時35分 / 提供:PJニュース
韓国国立中央博物館に掲示されている15世紀から19世紀にかけての韓国の古地図。(撮影:小田光康)
【PJニュース 2010年2月24日】韓国の首都ソウルにある韓国国立中央博物館を先日、訪れた。内部に韓国領土の歴史的変遷を描いた古地図が展示されている。韓国政府は歴史的に見ても竹島は韓国領の独島だと主張している。これに対して、日本政府は日本の固有領土であり、それを国際司法裁判所で争う姿勢まで示している。
博物館を訪れた際、ふと2月22日の「竹島の日」のことを思い出し、竹島問題で韓国があれだけ騒ぐのだから、韓国国家が威信をかけて建設した博物館には竹島が韓国領だと証明する古地図が展示されていて然るべきだ。そう考えて、竹島が韓国の古地図にはどう描かれているのか、確認した。
記事添付の写真を見ていただきたい。15世紀から19世紀までの古地図なのだが、どれ一つとして「独島」が描かれているものがない。韓国は6世紀に竹島が韓国領に編入されたと主張しているのだが、その後の15世紀から19世紀の500年もの間に渡ってそれを示す地図が一つも無いとは、不思議でならない。韓国でもっとも権威のある博物館に証拠が無いのだから、どこを探しても無いのだろう。
また、おかしなことに、古地図には「独島」などまったく描かれておらず、竹島が韓国領だと示す証拠が無いのだが、その古地図の説明には「韓国の古地図は、独島が韓国領だと雄弁に物語っている」と日本語で記されていた。
韓国政府が竹島を自国領だと主張するのは結構だが、その証拠をきっちりと示してはいかがだろうか。そうであれば、韓国国民の自信はさらに深まるだろうし、日本国民も納得するだろう。そこで国際司法裁判所などの公の舞台で白黒を付けるのが筋ではないか。【了】
パブリック・ジャーナリスト 小田 光康
【韓フルタイム】「竹島の日」今年も日韓で抗議活動相次ぐ
2010年02月23日15時41分 / 提供:韓フルタイム
日本大使館前の抗議活動 写真一覧(2件)昨日22日は島根県が定めた「竹島の日」であった。国の記念日ではないため、よく知らない人もいるのではないかと思うが、日本とは逆に韓国ではこの「竹島の日」の存在について知っている人はとても多い。韓国人からしてみれば、自分の領土であるはずの竹島(韓国名:独島)が日本の記念日として定められている事態は「許されざる事態」であるため、関心を持たざるを得ないようである。
そのため、「竹島の日」が定められた2005年以来、韓国ではこの日が近くなると「竹島の日」の削除を求めてあちこちで抗議活動が勃発する。今年もソウルにある日本大使館前や、釜山、大邱などで抗議デモが起こり、その様子が韓国のテレビなどでは報じられている。
そして22日の当日もやはり、日本大使館前には多くの市民団体が詰めかけた。市民団体「独島義兵隊」は、「日本が一方的に独島を島根県に編入させたので無効」「『竹島の日』は廃止すべき」と主張し、市民団体「我々の広場」は、「在大韓民国日本大使館のホームページから竹島問題を削除しろ」「ホームページに記載しても、国際連合憲章に記されている主権平等原則から逸脱している」と強く批判。日本政府と島根県を糾弾する激しい抗議活動が行われた。
そして、抗議活動は韓国だけでなく日本でも行われた。
「独島守護市民連帯」という市民団体は、島根県の現地で抗議活動を行おうとしたので、騒動にまで発展している。この市民団体は、「竹島の日」記念行事を阻止するため日本に団体員6人を派遣し、島根県の松江市にある島根県県民会館の正門前で抗議デモを行おうとした。
しかし、右翼との衝突を憂慮した県警により、近くの島根県県庁厚生会館に一時隔離されることに。団体員らは会館1階にある事務室の中で警察に見守られながら「武力による日韓強制併合へ謝罪しろ。反省して『竹島の日』を直ちに削除しろ」とデモを行ったそうだ。
韓国の団体員らが宿舎に移動しようとした際には、右翼団体が団体員に向かってシャベルを投げつけるなど、一時緊張状態にもなったと伝えられている。県警のおかげで直接的な衝突は起こらずに済んだようだが、来年以降もこのような事態は続きそうである。
一方、松江市では「竹島の日」記念式典が行われ、国民新党の亀井亜紀子参院議員をはじめ自民党からは8人が出席し、過去最多の国会議員が出席した。
韓国団体, 島根県で '竹島の日' 糾弾
| 記事入力 2010-02-22 17:25 | 最終修正 2010-02-22 18:02
独島守護市民連帯日本でデモ (東京=連合ニュース) ツェゼイック会長(マゴザに紫色襟巻き) など独島守護市民連帯会員たちが 22日午後島根(島根)現松江(松江)時にある島根県県庁厚生官で島根県公務員たちに至ったところ '竹島の日'を直ちに廃棄する要求しながら代置するある. 2010.2.22 << 独島守護市民連帯提供 >> photo@yna.co.kr
(東京=連合ニュース) 載せる特派員 = 韓国市民団体会員たちが日本島根(島根)現が決めたいわゆる '竹島の日'(2月22日)を迎え島根県で抗議デモを起こして日本右翼団体会員になる摩擦をもたらした.
ツェゼイック(54) 代表議長など独島守護市民連帯会員 6人は 22日午後 1時頃島根県松江(松江)時にある島根県県民会館正門の前でデモを起こそうとしたが日本右翼団体会員になる衝突を泣こうと思った日本警察によって近所にある島根県県庁厚生官に隔離された.
このために催議長などはドアが掛かった厚生官 1階事務室の中で日本警察が見守る中に "無力に恣行された韓日強制併合をお詫び.反省する竹島の日を直ちに廃棄する"と主張するデモを着でばなければならなかった.
独島守護市民連帯によれば宿所に移動しようと島根県庁を抜ける時日本右翼団体会員の投げたシャベルが催議長などが焼けたワゴン車に当たる落ちた位に雰囲気が刺刺しかった.
一方島根県はこの日午後 1時から松江(松江)時県民会館ナカホルであらかじめ募集した 150人が参加した中に '竹島.北方領土返還要求運動県民大会'を開いた.
島根県は 1905年 2月22日 '北緯 37度9分30秒, 東京 131度55分にいる島を竹島と呼ぶ本現Oki道士(隠岐島司)の所管で決める'と言う内容の考試をしたことを記念して 100年がすぎた 2005年から毎年 2月22日を言ったところ '竹島の日'で決めて記念式を開催する独島守護市民連帯会員たちは 2005年から毎年島根県でデモをするある.
韓国市民団体, 仕事右翼団体と衝突 (東京=連合ニュース) 22日午後日本島根(島根)現松江(松江)時にある島根県県民会館正門の前でデモを起こそうとしていた韓国市民団体独島守護市民連帯会員たちが弾乗合車に日本右翼団体会員たちが寄り集まると日本警察が阻むある. 2010.2.22 << 独島守護市民連帯提供 >> photo@yna.co.kr
chungwon@yna.co.kr
竹島の日' 阻止 日 抗議訪問団派遣
(ソウル=連合ニュース) 金恋心記者 = 独島守護全国連帯は日本島根県主観で 22日開かれる '竹島(竹島. 独島の日本式表現)の日' 記念行事を沮止するために抗議訪問団を派遣する事にしたと 19日明らかにした.
独島守護連帯はこの日午前鍾路区在韓日本大使館の前で記者会見を開く "日本は 100年前韓日強制併合と韓半島殖民支配で朝鮮の収奪と虐殺を事としておくこれを謝罪する賠償するどころか侵略社を歪曲, 美化して私たち固有領土である独島を奪おうと思う"と糾弾した.
引き継ぐ "2005年に竹島の日を不法制定して公布したことは第2の韓半島侵略のための宣戦布告でバッアドルヨジンダ"と "韓・日両国の友好関係を造成しようとすれば竹島の日を廃棄する独島さんだつ陰謀と歴史歪曲を直ちに中断する"と要求した.
ツェゼイック代表など 6人でクリョジン抗議訪問団は 21日日本島根県に出国して 22日島根県民会館の前で糾弾大会を開く現知事に抗議書簡を伝達する計画だ.
yjkim84@yna.co.kr
<著作権者(c)連合ニュース. 無断転載-栽培砲金誌.> 2010/02/19 11:50 送稿
独島義兵台 '竹島の日' 糾弾記者会見
(ソウル=連合ニュース) 金恋心記者 = 独島義兵台は 22日午後 '竹島(竹島. 独島の日本式表現)の日'を迎えソウル鍾路区在韓日本大使館の前で記者会見を開く "独島の島根県編入を取り消す島根県の行事と広報を直ちに中断する"と促した.
また "日本は世界地図で独島を竹島で歪曲したことを独島でドルリョノッゴ学生たちに独島を日本のだと教えることを白紙化しなければならない"と主張した.
団体はこの日声明(名前)で "無男独女惜しむ愛するように韓民族の独島住んだ見せてくれる 1905年独島侵略で始まった悲劇がまた再現されないようにしようと国会, 釜山, 大邱, 島根県等地で同時多発的に行事を開いた"と言った.
引き継ぐ "私たちは独島を奪おうとする日本を罵る恨むより我が領土を大事にすることができなかった過ちを国民自ら見回り願う"と "感情的な非難より理性的な末路, 大きい音で主張するより説得力ある言葉で世界人に大韓民国独島を紹介する日本である自ら独島が韓国のなのを認めるようにしようと思う"と付け加えた.
yjkim84@yna.co.kr
<著作権者(c)連合ニュース. 無断転載-栽培砲金誌.> 2010/02/22 17:26 送稿
"自民党幹部 '竹島の日' 行事場所訪問"
(東京=連合ニュース) 最だ特派員 = 独島が日本の領土と主張する日本島根(島根)現が来る 22日開催するいわゆる '竹島(竹島.日本が主張する独島名称)の日' 制定記念行事にIshiharaノ-ブテで(石原伸晃) 自民党組職部長が参加する事にしたと教徒(共同)通信が 9日伝えた.
今度行事は 5回目だが自民党幹部が党を代表して参加することは初めてだ. 自民党は与党だった去年まで中央党次元ではこの行事に議員たちを派遣しなかった.
行事には自民党の訴えだHiroyuki(細田博之) 私は幹事長, Aokiミキオ(青木幹雄) 前参院議員会長なども参加する. 民主党議員は過去一度もこの行事に参加したことがないし今度にも参加予定である議員はない.
島根県は 2005年 3月に現条例を制定, 2月 22日を '竹島の日'で決めた.
choinal@yna.co.kr
<著作権者(c)連合ニュース. 無断転載-栽培砲金誌.> 2010/02/09 17:17 送稿
万機要覧 元禄交渉の決着
龍福還泊襄陽、告于官、且獻 在伯耆時呈太守文、以證前事。
諸從者一一 納供、如龍福言、無異辭。
龍福は、襄陽に帰って、管に報告して、
また伯耆州にいる時に太守に送った書状を献じて、前のことを証明した。
また龍福に従っていった者たちも、龍福の陳述と一致していた。
於是倭知不可 復誑、抵書來府、謝曰、
不敢復造人 至鬱陵、是時、由龍福發、故倭疾之、以龍福行不由 馬島 爲罪。
かくして倭人たちは、これ以上、欺くことができないと知り、書簡を東莱府に送って謝って言うには
「二度と人を鬱陵島に行かせないだろう」と。
この時にその内容が龍福によってばれたということが分かって
倭人は彼を憎んで、龍福が行く時に「対馬を経由しないで行った」という事を言いがかりにして罪人にした。
奮約、有自馬島 向釜山一路以外皆禁之文故也。
昔の条約に、「対馬から釜山に向かう一路以外には、どんな道も禁ずる」があったからだ。
朝議皆 以 龍福罪 當斬、獨領
敦寧尹趾完・領中樞・南九萬謂、殺之、適足 快馬島憤、且其人桀點、非碌者、
宜留爲 他日用、乃流之。
朝廷の議論では、皆が、龍福は斬刑にあたると言ったが、
敦寧府・領中樞の南九万だけは、
「彼を殺すことは、対馬の憤りを拭ってやることになる。
そして龍福は傑出していて、低劣な者ではない。
適切に彼を生かして、後日に使えるようにするべきだ」と主張して、流刑にとどめた。
倭至今 不復指 鬱陵爲日本地、皆龍福功也。
日本が今に至るまで、鬱陵島は日本の地だと主張できないのは、すべて安龍福の功績だ。
柳成龍答。皇朝将書曰、
東海一邊、自慶尚左道 達于江道 達于咸鏡道、皆傍海之地。
南海多島嶼、東海無島嶼、且水性悍急、不利行。
故自前賊兵雖不無犯境之時、而不常有之。
〈柳成龍所論〉
柳成龍が、皇朝将に送った答書で、
「東海一辺、慶尚左道より江原道に至り、江原道咸境道に達するまで、すべて海に面した地である。
南海には多くの島々が、東海には島々がなくて、また波潮流が急で、船が航行するには不便である。
だから賊兵たちが国境を侵犯する時がないわけではないが、常にあるわけではない」と書いた。
万機要覧 安龍福
東莱人 安龍福は櫓軍に属していて、日本語がうまかった。
肅宗 19年(1693年) 夏、海に入って漁をしていると、漂流して鬱陵島に到った倭の船に遭遇した。
つかまって日本の五浪島につれていかれて、
龍福は隠島主に言った。「鬱陵島から我が国までは一日の道程であり、日本との距離はは五日程の長さだから、鬱陵島は我が国に属さないのではないか?朝鮮人が朝鮮の地へ行ったのに、何故に拘束するのか?」と言った。
島主は、彼を屈服させることができないと解って、伯耆州に送った。
伯耆州の太守は、彼を厚遇して銀幣を与えた。
龍福は受けとらないで言うには、「私は日本が鬱陵島のことで悶着を起こさないことが望みである」と言った。
太守は遂に関白に報告して、「鬱陵島は日本の領土ではない」という書類を作って授けた。
彼は長崎島を経由して対馬へ行った。
島主は対馬島の党(黨)として、書類を見せるように求めてきたので、書類を見せたら、書類を奪って還さず、龍福を対馬島に送った。
この時、対馬の島主は、関白の命として、鬱陵島について争った。
其の実際は関白の命ではなかった。
鬱陵島には魚と竹が豊富にあり、倭人たちはその利権を占めようと思ったことであり、
また、倭が派遣した遣いが我が国へ来れば朝廷で彼らを手厚く待偶したせいで、倭は彼らの往来が止まなかった。
彼らは龍福がそれらの企みか全部暴露されるのを恐れて、長い間拘禁したし、東莱に押送しても倭館に閉じこめて、前後 90日後に釈放した。
龍福が府使に言ったが、結局報告しなかった。翌年、接慰官が東莱へ来た時にも、龍福はまたこのことを訴えた。しかし、朝廷はこれを信じなかった。その後も、派遣された倭人が何回来て紛争を起こしそうだったが、我国の人は憂えたりしたが、対馬の偽りを知ることはなかった。
龍福は憤慨して、蔚山の浜辺に行き、商僧の雷憲ら等の船が停泊していた。龍福が彼らを誘って言うには、「鬱陵島には海菜が多く、吾は汝らのために、その道を指し示して導く」というと、彼らは喜んでこれに従った。
三昼夜かかって鬱陵島に着いた。
倭の船が東よりやってきた。
龍福は、多くの人に目配せして、「倭人たちを縛れ」と言ったが、船人たちは怖くてできなかった。
龍福ひとりが前に出て怒鳴って言った。「何故、我が領土を犯すか?」
すると、倭人が答えるには、「もともと松島に向かう途中だったので、いまから行くところだ」。
龍福は松島まで追いかけていって、また怒鳴って言うには、
「松島は、すなわち于山島(芋山島)だ。
于山島が我らの領土だという言葉が聞こえなかったか?」と言いつつ、
杖棒を振り回して釜を砕いたら、倭人たちはとても驚いて逃げてしまった。
さらに龍福は伯耆州に行ってその事実を伝えたら、太守は彼らを悉く捕まえて治めた。
龍福は、自分は「鬱陵島監税官」だと偽って称して、
升堂に上がって太守に抗礼して、大きい声で言った。
「対馬が中に入って欺いているのは鬱陵島問題だけではない。」
「我が国が送った物品を、対馬は日本に転売して、ごまかしをすることが多い。」
「米は 15斗が1斛なのに、対馬は7斗1斛にする。
布は30尺が 1疋なのに、対馬では20尺で1疋にする。
紙 1束ならとても長いはずなのに、対馬では切って3束にする。
関白がこんな内容を知れば、どうするだろうか?
「私のために、書簡を関白に伝達することができないだろうか」と言った。
太守はこれを許し、ちょうど対馬の島主の父が、江戸に在る。
この大事を聞いて、太守に哀願して、
「この書簡が、朝に幕府に入ったなら、夕方には私の息子は死ぬだろう」
太守は帰ってきて、龍福には、
「書状を上げる必要がないから、速く対馬に帰りなさい」
「さらにまた国境問題が争われたなら、使者を送って書状を携えて来なさい」と言った。
肅宗 19年(1693年) 夏、海に入って漁をしていると、漂流して鬱陵島に到った倭の船に遭遇した。
つかまって日本の五浪島につれていかれて、
龍福は隠島主に言った。「鬱陵島から我が国までは一日の道程であり、日本との距離はは五日程の長さだから、鬱陵島は我が国に属さないのではないか?朝鮮人が朝鮮の地へ行ったのに、何故に拘束するのか?」と言った。
島主は、彼を屈服させることができないと解って、伯耆州に送った。
伯耆州の太守は、彼を厚遇して銀幣を与えた。
龍福は受けとらないで言うには、「私は日本が鬱陵島のことで悶着を起こさないことが望みである」と言った。
太守は遂に関白に報告して、「鬱陵島は日本の領土ではない」という書類を作って授けた。
彼は長崎島を経由して対馬へ行った。
島主は対馬島の党(黨)として、書類を見せるように求めてきたので、書類を見せたら、書類を奪って還さず、龍福を対馬島に送った。
この時、対馬の島主は、関白の命として、鬱陵島について争った。
其の実際は関白の命ではなかった。
鬱陵島には魚と竹が豊富にあり、倭人たちはその利権を占めようと思ったことであり、
また、倭が派遣した遣いが我が国へ来れば朝廷で彼らを手厚く待偶したせいで、倭は彼らの往来が止まなかった。
彼らは龍福がそれらの企みか全部暴露されるのを恐れて、長い間拘禁したし、東莱に押送しても倭館に閉じこめて、前後 90日後に釈放した。
龍福が府使に言ったが、結局報告しなかった。翌年、接慰官が東莱へ来た時にも、龍福はまたこのことを訴えた。しかし、朝廷はこれを信じなかった。その後も、派遣された倭人が何回来て紛争を起こしそうだったが、我国の人は憂えたりしたが、対馬の偽りを知ることはなかった。
龍福は憤慨して、蔚山の浜辺に行き、商僧の雷憲ら等の船が停泊していた。龍福が彼らを誘って言うには、「鬱陵島には海菜が多く、吾は汝らのために、その道を指し示して導く」というと、彼らは喜んでこれに従った。
三昼夜かかって鬱陵島に着いた。
倭の船が東よりやってきた。
龍福は、多くの人に目配せして、「倭人たちを縛れ」と言ったが、船人たちは怖くてできなかった。
龍福ひとりが前に出て怒鳴って言った。「何故、我が領土を犯すか?」
すると、倭人が答えるには、「もともと松島に向かう途中だったので、いまから行くところだ」。
龍福は松島まで追いかけていって、また怒鳴って言うには、
「松島は、すなわち于山島(芋山島)だ。
于山島が我らの領土だという言葉が聞こえなかったか?」と言いつつ、
杖棒を振り回して釜を砕いたら、倭人たちはとても驚いて逃げてしまった。
さらに龍福は伯耆州に行ってその事実を伝えたら、太守は彼らを悉く捕まえて治めた。
龍福は、自分は「鬱陵島監税官」だと偽って称して、
升堂に上がって太守に抗礼して、大きい声で言った。
「対馬が中に入って欺いているのは鬱陵島問題だけではない。」
「我が国が送った物品を、対馬は日本に転売して、ごまかしをすることが多い。」
「米は 15斗が1斛なのに、対馬は7斗1斛にする。
布は30尺が 1疋なのに、対馬では20尺で1疋にする。
紙 1束ならとても長いはずなのに、対馬では切って3束にする。
関白がこんな内容を知れば、どうするだろうか?
「私のために、書簡を関白に伝達することができないだろうか」と言った。
太守はこれを許し、ちょうど対馬の島主の父が、江戸に在る。
この大事を聞いて、太守に哀願して、
「この書簡が、朝に幕府に入ったなら、夕方には私の息子は死ぬだろう」
太守は帰ってきて、龍福には、
「書状を上げる必要がないから、速く対馬に帰りなさい」
「さらにまた国境問題が争われたなら、使者を送って書状を携えて来なさい」と言った。
万機要覧 元禄の日朝交渉
肅宗 19年(1693年)に、対馬島の太守・平義信が漂流民 2人を押し還しながら、礼曹曰く「貴域の漁民が、本国竹島に船に乗って入って来たが、極めて到るべきではない地である。だから地方官が国禁の法を詳しく教えてあげたのに、今また国禁を顧みないで、漁民40余人が竹島に入ってきて雑然と漁をして採る。士官はその漁民 2人安龍福と朴於屯を拘留して、州司に人質として、その時の証拠にしようとしたのだ。私、因幡州の牧は、前後の事情を総合して、東都に報告したら、その漁民を弊邑で引き受けて、本国に返還しなさい、という令を受けた。本人は私たちの殿下が広く民を愛することが遠近違うことがないので、過去は咎めないで、ただ恩恵を施して、 2人の漁民を彼らの故国に返したのだ。
この事は関係が重大だから、両国はどうして不意の事態に対して気づかわないこともあるか?
辺浦に、速くまた言い付けて、禁止條項を堅く守って、隣国との睦まじさを長く続けることが良いことと思う。
答えて曰く、「弊国は、海上の禁令が非常に厳格であり、東海の民が、外洋に出ることはない。鬱陵島が我らの領土であり、またはるかに遠くにあるからという理由でも、決して自由に往来すること許していないし、ましてその外だというのか?
今私たちの漁船たちが貴国の領土である竹島に入ったことに対して、送還する手間をする隣国の好意には、実にありがたく感じるところだ。
海民の漁で、風浪に会って漂流する事がないでもないが、海を渡って深く入って行ったことに対しては、法に基づいて懲戒しなければならないでしょう。今まさに、犯人たちは法によって罪を律せられる」と言った。
この時、接慰官・洪重夏が東莱府に至って、答書を伝達したら、
派遣された倭人が言うには、「竹島のことを論じて、何をもって鬱陵島を言うのか?」と言った。
歴官は答えるのを、「我が国もまた、海上の禁止事項を厳格に明らかにするためだ」と言ったら
倭人が言うには 「鬱陵島が貴国の領土であることはよく分かるが、壬辰の乱の後には、日本の所になり、人が占拠していると貴国の 《芝峯類説》に書いてあるのではないか?」と言った。
首席歴官・朴再興が言うには「芝峯類説の中には誠にその言葉がある。しかし、あるこれにあるからといって、それを絶対にそのように見てはいけない。壬辰の乱の時に、日本兵が我が境の中に深く入って来て、西方では平安道に至ったし、北では咸境道まで至った。大小の海岸地方の郡邑たちは、皆、乱の兵に占領されたところ、鬱陵一島もそうではない。どうして壬辰乱の時に乱の兵たちが占拠したことをもって言うのか?
類説の所論を援用することはできない。
さらに文士の一時的な漫筆で何を明らかに証明するになるか」と言った。
1694年に対馬島太守・平義信が、礼曹判書に書簡を送って言うには、「この前、本国の竹島に入って来た貴国の漁民を送還したのに対した、貴国の答書には、鬱陵島の名が入っていたが、これは理解することができない。鬱陵島という名称を消してください。云云.」と言った。
1695年に、対馬島の倭人・橘真重が、竹島に対する疑問点 4條を東莱部に書信をあげた。
1696年には対馬島奉行の倭人・平義信ら六人が連名して、我が国の歴官・卞 宋の両人に書信を送った。その一論では竹島にのことに論議であり、一つは安竜福がの行動した事件を論じたものだった。この時の朝廷の世論は、「一つの空き地のことで、争うのは正しくない」 としたが、ただ領議政・南九万だけは、「領土は祖宗で受け継いでいるのだから、与えることはできない」と した。さらに「この島は、高麗が新羅の時から得て、わが朝廷が高麗から得たものであり、元々、日本の地ではない」と言ったことから、
この行き来が止んだ。
武臣・張漢相を審議中の鬱陵島に派遣した。この時から法を定めて 3年に一回、その島を調査することにした。管で斧を与えて、その竹と若木切って15袋、また土物を採取して、政府に納めることとして、信とをするようにした。三陟営将及び越松 万戸が交賛にここに入った。
この事は関係が重大だから、両国はどうして不意の事態に対して気づかわないこともあるか?
辺浦に、速くまた言い付けて、禁止條項を堅く守って、隣国との睦まじさを長く続けることが良いことと思う。
答えて曰く、「弊国は、海上の禁令が非常に厳格であり、東海の民が、外洋に出ることはない。鬱陵島が我らの領土であり、またはるかに遠くにあるからという理由でも、決して自由に往来すること許していないし、ましてその外だというのか?
今私たちの漁船たちが貴国の領土である竹島に入ったことに対して、送還する手間をする隣国の好意には、実にありがたく感じるところだ。
海民の漁で、風浪に会って漂流する事がないでもないが、海を渡って深く入って行ったことに対しては、法に基づいて懲戒しなければならないでしょう。今まさに、犯人たちは法によって罪を律せられる」と言った。
この時、接慰官・洪重夏が東莱府に至って、答書を伝達したら、
派遣された倭人が言うには、「竹島のことを論じて、何をもって鬱陵島を言うのか?」と言った。
歴官は答えるのを、「我が国もまた、海上の禁止事項を厳格に明らかにするためだ」と言ったら
倭人が言うには 「鬱陵島が貴国の領土であることはよく分かるが、壬辰の乱の後には、日本の所になり、人が占拠していると貴国の 《芝峯類説》に書いてあるのではないか?」と言った。
首席歴官・朴再興が言うには「芝峯類説の中には誠にその言葉がある。しかし、あるこれにあるからといって、それを絶対にそのように見てはいけない。壬辰の乱の時に、日本兵が我が境の中に深く入って来て、西方では平安道に至ったし、北では咸境道まで至った。大小の海岸地方の郡邑たちは、皆、乱の兵に占領されたところ、鬱陵一島もそうではない。どうして壬辰乱の時に乱の兵たちが占拠したことをもって言うのか?
類説の所論を援用することはできない。
さらに文士の一時的な漫筆で何を明らかに証明するになるか」と言った。
1694年に対馬島太守・平義信が、礼曹判書に書簡を送って言うには、「この前、本国の竹島に入って来た貴国の漁民を送還したのに対した、貴国の答書には、鬱陵島の名が入っていたが、これは理解することができない。鬱陵島という名称を消してください。云云.」と言った。
1695年に、対馬島の倭人・橘真重が、竹島に対する疑問点 4條を東莱部に書信をあげた。
1696年には対馬島奉行の倭人・平義信ら六人が連名して、我が国の歴官・卞 宋の両人に書信を送った。その一論では竹島にのことに論議であり、一つは安竜福がの行動した事件を論じたものだった。この時の朝廷の世論は、「一つの空き地のことで、争うのは正しくない」 としたが、ただ領議政・南九万だけは、「領土は祖宗で受け継いでいるのだから、与えることはできない」と した。さらに「この島は、高麗が新羅の時から得て、わが朝廷が高麗から得たものであり、元々、日本の地ではない」と言ったことから、
この行き来が止んだ。
武臣・張漢相を審議中の鬱陵島に派遣した。この時から法を定めて 3年に一回、その島を調査することにした。管で斧を与えて、その竹と若木切って15袋、また土物を採取して、政府に納めることとして、信とをするようにした。三陟営将及び越松 万戸が交賛にここに入った。
万機要覧 慶長の日朝交渉
光海七年 倭差船二隻 謂将探 竹島形止
且曰 島在慶尚・江原之間
朝廷悪其猥越 不許接待 只令
光海君 7年(1615年)に、倭人が2隻の船を送って、
「磯竹島の状況を、将に探りにきた」と言う
「島が慶尚道と江原道の間にある」と言って、阻止した。
朝廷は、その猥越を憎んで、接待することを許さず。
東莱府使朴慶業答書曰
足下非不知此島之横占
乃欲 越窺
是誠何心恐非隣好之道
東莱府使・朴慶業に答書して曰く、
「貴下は、この島を横占しようとしているのを、分からないはずはないなのに、
他人の地を窺うとは何の心なのか?
これは善隣友好の道理がないようだ。
所謂 竹島 実我国之鬱陵島也
介於慶尚・江原海洋
載在輿地 焉可誣也
謂うところの竹島は、実に我が国の鬱陵島である。
慶尚道と江原道の海の間にあり、
輿地誌に載っているで、欺くことはできない。
盖自羅・麗以来取考方物 逮 至我朝屡刷逃民
今雖廃棄豈可容他人胃居乎
前日復書 今以前日復書之説観之 前已有所往復也
新羅・高麗の時以来、物産を受け入れたし、本朝は、逃民をつれもどしている。
今廃棄していたといえども、他人が居住することをどうして受け入れられようか。
今回の答書は、前に往復した書簡とその説く処は同じである。
已悉梗 貴島 宜瞿然改図
而今乃直以解纜発船為言
不幾於軽朝廷而昧道理乎
もう、その大略を明らかにしたから、
貴島は、明らかに反省しなさい。
しかして、今すぐに船を出発させるのであれば
これは我が朝廷を軽んじ、道理に暗いと判断せざるを得ない。
貴島於我国往来過行 惟有一路 譬若門戸
貴島が我が国を往来するのは、ただ一つの道があるだけだ。
譬えて門戸のようだ。
此外 無論漂船 皆以賊船論断
弊鎭沿海将官 惟知厳守約束 而已 不知其他
この外に漂流する船は論無く皆賊船と断ずる。
鎭沿海の将官は、ただ厳しく約束を守ることを知っているだけで、他のことは知らない。
惟貴島審區土之有 別知 界限之難侵格
守信義努力自勗、免致謬 戻尚克有終裁
だから貴島は、領土と言う区別があることを察して、
領界を侵犯することはできないということを知って、
信義を守り、謬を犯さないようにして
有終の美を飾りなさい。」と言った。
万機要覧 朝鮮前期
本朝 太宗朝、聞流民多逃入、其島再命 三陟 金麟雨 為按撫使 刷出。
本朝・太宗の時、流民らの多くが、再び其の島に逃げて入って行った、
という話を聞いて三渉の金金麟雨を按撫使に任命して、刷出させた。
世宗二十年、遣縣人萬戸南顕 率 數百人 往捜逋民、盡俘 金丸等七十餘人 而来其地 遂空。
世宗 20年、県人で万戸の南顕率は、数百人を率いて行って、
逃亡者を捜して金丸 など 70余人をことごとく捕まえて来た、その地はついに空となった。
成宗二年、有告別 三峯島 者、乃遣 朴宗元 往見之、因風濤不得到、而還。
同行一船 泊鬱陵島、只取大竹 大鰒魚、囘啓云、島中無居民矣。
成宗 2年(1471年)に、誰かが言うには、「三峰島と言う島が別にある」と告げた。
朴宗元を派遣して調査したが風濤にあって陸地に到達することができなくて帰ってきた。
同行していた一艘の船が、鬱陵島に停泊して
大竹と大きい鰒(あわび)を取って帰って来て、「島には人が住んでいません」と言った。
万機要覧 高麗朝
高麗太祖庚寅、
土頭貢處、授使白吉爵、
以土頭為正朝
高麗太祖 13年庚寅930年に、
土着民の頭が来て、貢ぎ物をすると、彼に「白吉」と言う職位を与えて、
土着民の頭を正朝とした。
顕宗壬戌、
島民被女真寇掠、逃来者多、處之禮州為編戸。
顕宗 13年壬戌(1021年)に、
島民らが、女真族の寇で掠奪にあって逃げて来た者が多く、礼州の戸籍に編入した。
徳宗壬申、
島主遣、箕子夫於仍多郎来貢。
徳宗 壬辰(1032年)に、
島主は、その息子・夫於仍多郎を送って朝貢した。
仁宗已未、
溟州道首倉使 李陽実 入島、
取菓核・木葉異常者
以居民、遣溟州首倉 金柔立 往視。
仁宗 17年已未 (1139年)に、
溟州道の首倉使・李陽実が島に入って、
果物の菓・核・異常な木の葉を取って来て献じた。
毅宗己卯
王聞 島中地広土肥 可以居民 遣溟州首倉金柔立往視
毅宗 13年已卯(1159年)に、王はこの島が地が広くて、土が肥えていて、
民を住まわすことができることを聞いて、溟州の首倉・金柔立を派遣して視察させた。
-------------
欲復為縣囘
-------------
回奏云、
島有有大山、自山頂 東距海 一萬余歩、
西距海 一萬三千余歩、南距海 一萬五千余歩、北距海 一萬余歩。
有村落墟 七所、破礎尚存、有石佛・石塔・鐵鍾、
地多巌石 人不可居
遂寝其議
帰って来て報告するには、
「島には大きい山があり、山頂から東方の海までの距離は10,000余歩、
西の海の方の距離 13,000余歩、南の海の方の距離 15,000余歩、北の海まで距離が 10,000余歩。
村落の廃墟が七箇所ある。壊れた礎が尚存在していて、石佛・石塔・鉄鍾がある。
地には岩石が多くて、人が住むことはできない。」
遂に中止した。
後崔忠献 以本島土壌膏沃、多珍木海錯、
遣使 移本郡民 以實之。
後為風濤所 盪舟覆、人多物故、因還其民。
後に崔忠献が、この島の土壌が肥沃で、多くの珍木や海産物があると言って、
使者を派遣して、本郡の住民を移そうとしたが、
何回も風濤に会って船が転覆してしまい、多くの人が死んだ。
その民をもとのところ還した。
高元之際、本國叛臣 李樞 等 告于、元以鬱陵島 多珍在之材。
元遣使入島 欲伐木 以納。
上表陳乞、得止。
高宗・元宗の時に、本国に叛臣した李樞などが、
「鬱陵島には物珍しい材木が多い」と告げたので、
元は人を派遣し入島させ、材木を切って上納させようと欲したが、
文を書いて陳乞いしたので止めさせた。
万機要覧 新羅朝
新羅取之 後恐 導倭為寇 刷出
新羅は之を取った後、倭を導きいれて寇をするのを恐れて、居民を刷出した。
「導倭為寇」とは、3世紀から5世紀にかけて、絶え間ない「倭為寇」を新羅は受けていた。これが、6世紀の初めに突然止んだので、新羅は于山国を攻めた。
ここで言う「刷出」とは何だろうか。
新羅の威を恐れて臣従を誓うのは、良くある話である。しかし、単なる臣従では、「刷出」とは言わないだろう。
では、半島に移り住むことだろうか。新羅は于山国民を騙して上陸したに過ぎないのだから、降服条件に「半島に移り住め」とは出来ない。すると、「猛獣を放って、踏み殺させるぞ」が嘘であることがばれる前に、皆殺しにすることである。しかし、皆殺しにするには、高度な作戦と武力が必要であるから、皆殺しは無理であろう。
もしかしたら、異斯夫が上陸した時、于山国は無人の地だったのではないだろうか。
例えば、伽耶にあった日本府が滅んだので、前線基地としての于山国の存在意義が無くなり、新羅寇が予見される中、于山国人は日本に引き上げたのではないだろうか。
新羅は之を取った後、倭を導きいれて寇をするのを恐れて、居民を刷出した。
「導倭為寇」とは、3世紀から5世紀にかけて、絶え間ない「倭為寇」を新羅は受けていた。これが、6世紀の初めに突然止んだので、新羅は于山国を攻めた。
ここで言う「刷出」とは何だろうか。
新羅の威を恐れて臣従を誓うのは、良くある話である。しかし、単なる臣従では、「刷出」とは言わないだろう。
では、半島に移り住むことだろうか。新羅は于山国民を騙して上陸したに過ぎないのだから、降服条件に「半島に移り住め」とは出来ない。すると、「猛獣を放って、踏み殺させるぞ」が嘘であることがばれる前に、皆殺しにすることである。しかし、皆殺しにするには、高度な作戦と武力が必要であるから、皆殺しは無理であろう。
もしかしたら、異斯夫が上陸した時、于山国は無人の地だったのではないだろうか。
例えば、伽耶にあった日本府が滅んだので、前線基地としての于山国の存在意義が無くなり、新羅寇が予見される中、于山国人は日本に引き上げたのではないだろうか。
万機要覧 可之島
海中有 大獣 牛形赤眸 無角、羣臥海岸 見人獨行 害之遇人 多走入水。
海中には、大きい獣がいて、牛の形のようで、瞳は赤く、角がない。
海岸に臥して群れをなしていて、人が一人で行くと、これを害する。
しかし、人が多ければ、走って水の中に入っていく。
名可之島、本于山國。
名を可之島という。本来は于山国である。
名を「可支島」の誤記であろうか。
ここで、「可支島」が使用されていないから、「可支島=リャンコ島」説の生まれる余地が残る。
海中には、大きい獣がいて、牛の形のようで、瞳は赤く、角がない。
海岸に臥して群れをなしていて、人が一人で行くと、これを害する。
しかし、人が多ければ、走って水の中に入っていく。
名可之島、本于山國。
名を可之島という。本来は于山国である。
名を「可支島」の誤記であろうか。
ここで、「可支島」が使用されていないから、「可支島=リャンコ島」説の生まれる余地が残る。
万機要覧 地理
文献備考曰
文献備考曰く
鬱陵島 在蔚珍 正東海中 與日本之隠岐州 相近
而三峯岌業空、南峯稍卑
日清則峯頭樹木及山根沙渚 歴歴可見、
鬱陵島は蔚珍の正東の海の中にあり、日本の隠州に近く、
三つの峰が空に向かってそびえているが、南側の峰は少し低い。
天気が晴れていれば、峰の頭上にある樹木と山のふもとの沙渚がも歴々と見える。
風便二日可到、地方百里、
産柴胡 藁本 石楠 藤草 諸香木蘆
竹多 合抱者 蘆実 桃核大 可為杯、升
山猫大如犬、鼠大如猫。
風が順風なら二日ほどで到る。地方は百里。
柴胡・藁本・石楠・藤草・各種香木・蘆を産出する。
竹は、合抱竹が多く、蘆実と桃が大きく、杯や升を作ることができる。
山猫は犬の如く大きく、鼠が猫の如く大きい。
海中有 大獣 牛形赤眸 無角、
羣臥海岸 見人獨行 害之遇人
多走入水。
海中には、大きい獣がいて、牛の形のようで、瞳は赤く、角がない。
海岸に臥して群れをなしていて、人が一人で行くと、これを害する。
しかし、人が多ければ、走って水の中に入っていく。
1432年『世宗実録地理志』(#1069)
于山、武陵二島は県の東の海中にある。二島はお互いに相去ること遠くなく、天候が清明であれば望み見ることができる。新羅の時、于山国と称した。一に欝陵島ともいう。その地の大きさは百里である。
1478年『新増東国輿地勝覧』(#1096)
于山島、欝陵島。一に武陵という。一に羽陵という。二島は県の真東の海中にある。三峰が高くけわしく空にそびえている。南の峯はすこし低い。天候が清明なら峯のてっぺんの樹木やふもとの砂浜や渚を歴々と見ることができる。風にのれば、二日で到着できる。一説によると于山、欝陵島は本来一島という。その地の大きさは百里である。
肅宗実録、1694年08月14日の項 (#16242)
我が国には江原道蔚珍県に属した鬱陵島と言う島がある。本県の東海の中あって、波が刺刺しくて波路が便利ではないから、何年か前に民を移して地を留守にしておいて、随時に公差を送って捜検するようにした。本島は、峰巒と樹木を内陸でもありありと眺めることができ、凡そ山川の屈曲と地形が広く、民の住んだ遺址あり、種々の産品を生む。この様な内容が、我が国の『輿地勝覧』に載っており、歴代に伝えられている。
1744年『春官志』 (#15722)
欝陵島。江原道の海中にある。蔚珎縣に属す。輿地勝覧に曰く。一に武陵という。一に羽陵という。蔚珎県の正東の海中にある。三峰が高くけわしく空にそびえている。南の峯はすこし低い。天候が清明なら峯のてっぺんの樹木やふもとの砂浜や渚を歴々と見ることができる。風にのれば、二日で到着できる。一説によると于山、欝陵島は本来一島という。
1770年『東国文献備考』
内容不明。「文献備考に曰く」とあるので、「東国文献備考」の内容が推定可能。
1808年『万機要覧』
内容は上記。
1908年『増補文献備考』
于山島 鬱陵島(在東140km・・・)
文献備考曰く
鬱陵島 在蔚珍 正東海中 與日本之隠岐州 相近
而三峯岌業空、南峯稍卑
日清則峯頭樹木及山根沙渚 歴歴可見、
鬱陵島は蔚珍の正東の海の中にあり、日本の隠州に近く、
三つの峰が空に向かってそびえているが、南側の峰は少し低い。
天気が晴れていれば、峰の頭上にある樹木と山のふもとの沙渚がも歴々と見える。
風便二日可到、地方百里、
産柴胡 藁本 石楠 藤草 諸香木蘆
竹多 合抱者 蘆実 桃核大 可為杯、升
山猫大如犬、鼠大如猫。
風が順風なら二日ほどで到る。地方は百里。
柴胡・藁本・石楠・藤草・各種香木・蘆を産出する。
竹は、合抱竹が多く、蘆実と桃が大きく、杯や升を作ることができる。
山猫は犬の如く大きく、鼠が猫の如く大きい。
海中有 大獣 牛形赤眸 無角、
羣臥海岸 見人獨行 害之遇人
多走入水。
海中には、大きい獣がいて、牛の形のようで、瞳は赤く、角がない。
海岸に臥して群れをなしていて、人が一人で行くと、これを害する。
しかし、人が多ければ、走って水の中に入っていく。
1432年『世宗実録地理志』(#1069)
于山、武陵二島は県の東の海中にある。二島はお互いに相去ること遠くなく、天候が清明であれば望み見ることができる。新羅の時、于山国と称した。一に欝陵島ともいう。その地の大きさは百里である。
1478年『新増東国輿地勝覧』(#1096)
于山島、欝陵島。一に武陵という。一に羽陵という。二島は県の真東の海中にある。三峰が高くけわしく空にそびえている。南の峯はすこし低い。天候が清明なら峯のてっぺんの樹木やふもとの砂浜や渚を歴々と見ることができる。風にのれば、二日で到着できる。一説によると于山、欝陵島は本来一島という。その地の大きさは百里である。
肅宗実録、1694年08月14日の項 (#16242)
我が国には江原道蔚珍県に属した鬱陵島と言う島がある。本県の東海の中あって、波が刺刺しくて波路が便利ではないから、何年か前に民を移して地を留守にしておいて、随時に公差を送って捜検するようにした。本島は、峰巒と樹木を内陸でもありありと眺めることができ、凡そ山川の屈曲と地形が広く、民の住んだ遺址あり、種々の産品を生む。この様な内容が、我が国の『輿地勝覧』に載っており、歴代に伝えられている。
1744年『春官志』 (#15722)
欝陵島。江原道の海中にある。蔚珎縣に属す。輿地勝覧に曰く。一に武陵という。一に羽陵という。蔚珎県の正東の海中にある。三峰が高くけわしく空にそびえている。南の峯はすこし低い。天候が清明なら峯のてっぺんの樹木やふもとの砂浜や渚を歴々と見ることができる。風にのれば、二日で到着できる。一説によると于山、欝陵島は本来一島という。
1770年『東国文献備考』
内容不明。「文献備考に曰く」とあるので、「東国文献備考」の内容が推定可能。
1808年『万機要覧』
内容は上記。
1908年『増補文献備考』
于山島 鬱陵島(在東140km・・・)
新増東国輿地勝覧
2010年2月23日火曜日
李氏成宗の「三峰島」認識
1471年5月、金漢京等は、三峯島で島人に会った。
1475年5月、金漢京等は、三峯島に近づいたが、上陸しなかった。
1476年6月、金漢京の言は信用できない。信用できる者を送って再捜査させよう。
1476年10月、金自周の報告を受けた。三峯島の特徴を絵に描いてきた。白衣の30余人を見た。
これらの事から、朝鮮の官吏が三峯島に上陸したのは1475年が最後で、次の上陸が1694年であることが判る。
戦後の韓国は、金自周が報告した三峯島の状況は、リャンコ島であると言う。しかし、金自周は鬱陵島に行くことを命じられていたのであるから、三峯島の状況を報告した筈であり、それがリャンコ島の状態に似ていたとすれば、朝廷も金自周もリャンコ島の状態を知らなかったことを意味する。
◎ 1476-06-22 金漢京は三峯島に至らず
下書永安道觀察使李克均曰:
今見卿啓,
知鏡城金漢京等二人, 辛卯五月漂泊三峯島, 與島人相接,
又於乙未五月, 漢京等六人向此島, 距七八里許, 望見阻風, 竟不得達。
此言雖不可信, 亦或非妄, 今宜別遣壯健可信人三人同漢京等, 入送搜覓。
◎ 1476-10-22 金自周は白衣の30余人を見た
永安道觀察使李克均馳啓: “永興人金自周言: ‘往見三峯島, 且圖其形。’ 送自周以進。” 命問之, 自周對曰: “於鏡城海濱乘舟, 行四晝三夜, 見島屹然, 而有人三十餘, 列立島口, 有烟氣。 其人衣白, 形貌遠不能詳, 然其大概乃朝鮮人也, 懼見執, 不能進也。” 賜襦衣二領。
◎ 1476-10-27 成宗 金自周は島の北に三石列立
兵曹啓: “永興人金自周供云: ‘
本道觀察使, 以三峯島尋覓事, 遣自周及宋永老與前日往還金興、金漢京、李吾乙亡等十二人, 給麻?船五隻入送,
去九月十六日於鏡城地瓮仇未發船向島, 同日到宿富寧地靑巖, 十七日到宿會寧地加隣串, 十八日到宿慶源地末應大,
二十五日西距島七八里許, 到泊望見, 則於島北有三石列立, 次小島, 次巖石列立, 次中島, 中島之西又有小島, 皆海水通流。
亦於海島之間, 有如人形別立者三十, 因疑懼不得直到, 畫島形而來。’
臣等謂往年朴宗元由江原道發船, 遭風不至而還, 今漢京等發船於鏡城瓮仇未, 再由此路出入, 至畫島形而來, 今若更往, 可以尋覓。 請於明年四月風和時, 選有文武才者一人入送。” 從之。
1475年5月、金漢京等は、三峯島に近づいたが、上陸しなかった。
1476年6月、金漢京の言は信用できない。信用できる者を送って再捜査させよう。
1476年10月、金自周の報告を受けた。三峯島の特徴を絵に描いてきた。白衣の30余人を見た。
これらの事から、朝鮮の官吏が三峯島に上陸したのは1475年が最後で、次の上陸が1694年であることが判る。
戦後の韓国は、金自周が報告した三峯島の状況は、リャンコ島であると言う。しかし、金自周は鬱陵島に行くことを命じられていたのであるから、三峯島の状況を報告した筈であり、それがリャンコ島の状態に似ていたとすれば、朝廷も金自周もリャンコ島の状態を知らなかったことを意味する。
◎ 1476-06-22 金漢京は三峯島に至らず
下書永安道觀察使李克均曰:
今見卿啓,
知鏡城金漢京等二人, 辛卯五月漂泊三峯島, 與島人相接,
又於乙未五月, 漢京等六人向此島, 距七八里許, 望見阻風, 竟不得達。
此言雖不可信, 亦或非妄, 今宜別遣壯健可信人三人同漢京等, 入送搜覓。
◎ 1476-10-22 金自周は白衣の30余人を見た
永安道觀察使李克均馳啓: “永興人金自周言: ‘往見三峯島, 且圖其形。’ 送自周以進。” 命問之, 自周對曰: “於鏡城海濱乘舟, 行四晝三夜, 見島屹然, 而有人三十餘, 列立島口, 有烟氣。 其人衣白, 形貌遠不能詳, 然其大概乃朝鮮人也, 懼見執, 不能進也。” 賜襦衣二領。
◎ 1476-10-27 成宗 金自周は島の北に三石列立
兵曹啓: “永興人金自周供云: ‘
本道觀察使, 以三峯島尋覓事, 遣自周及宋永老與前日往還金興、金漢京、李吾乙亡等十二人, 給麻?船五隻入送,
去九月十六日於鏡城地瓮仇未發船向島, 同日到宿富寧地靑巖, 十七日到宿會寧地加隣串, 十八日到宿慶源地末應大,
二十五日西距島七八里許, 到泊望見, 則於島北有三石列立, 次小島, 次巖石列立, 次中島, 中島之西又有小島, 皆海水通流。
亦於海島之間, 有如人形別立者三十, 因疑懼不得直到, 畫島形而來。’
臣等謂往年朴宗元由江原道發船, 遭風不至而還, 今漢京等發船於鏡城瓮仇未, 再由此路出入, 至畫島形而來, 今若更往, 可以尋覓。 請於明年四月風和時, 選有文武才者一人入送。” 從之。
李氏世宗の「蓼島」認識
1429-12-27 江原道に蓼島在り。
1430-01-26 蓼島から還った人を探せ。
1430-04-04 山に登れば蓼島が見える。
1430-04-05 江原道で蓼島を捜せ。
1430-04-07 咸吉道で蓼島を捜せ。
1430-10-23 咸吉道の南海上に二峯如島あり。これが蓼島か。
1438-07-26 江原道に蓼島なし。
1441-07-14 咸吉道に蓼島なし。
1445-06-12 江原道の百餘里之地に蓼島がある。
1445-08-17 三陟府の沖に蓼島あり。
1445-08-17 蓼島を探して久しいが、未だに見つからない。
1473-01-09 武陵島の北に蓼島がある。(成宗)
1430-01-26 蓼島から還った人を探せ。
1430-04-04 山に登れば蓼島が見える。
1430-04-05 江原道で蓼島を捜せ。
1430-04-07 咸吉道で蓼島を捜せ。
1430-10-23 咸吉道の南海上に二峯如島あり。これが蓼島か。
1438-07-26 江原道に蓼島なし。
1441-07-14 咸吉道に蓼島なし。
1445-06-12 江原道の百餘里之地に蓼島がある。
1445-08-17 三陟府の沖に蓼島あり。
1445-08-17 蓼島を探して久しいが、未だに見つからない。
1473-01-09 武陵島の北に蓼島がある。(成宗)
世宗実録 地理志
「于山武陵二島在縣正東海中」と言うが、以下の説明は、1島の説明になっている。すると、先に掲げた「于山島」に対する説明が為されていると解するべきである。
「二島相去不遠」と言う。半島と鬱陵島、鬱陵島とリャンコ島を「二島相去不遠」と表現することはできない。「二島」は、一島と見間違うほどに「相去不遠」と解するべきである。
「風日淸明則可望見」と言う。「二島」は「相去不遠」と読んだのであるから、その流れで、「二島」は「風日淸明則可望見」と読むべきである。即ち、「二島は半島から見える」と解さねばならない。
麟雨言 “土地沃饒、竹大如柱、鼠大如猫、桃核大於升。他物稱是。”と言う。しかし、李氏実録にかかる記述が存しない。不可解である。
1454-世相実録地理志 / 江原道 / 三陟都護府/(蔚珍縣)
于山、武陵二島在縣正東海中。
于山と武陵の2島が県の正東海中にある。
二島相去不遠、風日淸明、則可望見。
2島がお互いに距離が遠くなくて、天気が晴れれば優に眺めることができる.
新羅時、稱于山國、一云鬱陵島。
新羅の時に于山国、または鬱陵島と言った。
地方百里、恃險不服
智證王十二年、異斯夫爲何瑟羅州軍主 謂于山人愚悍、難以威來、難以威來、可以計服、乃多以木造猛獸、分載戰?抵其國、誑之曰 “汝若不服、則?放此獸。” 國人懼來降。
地方が百里あり、〈人々が地勢の)険しさを信じて従わないので
智証王12年に、異斯夫が何瑟羅州軍主になったとき、「于山国人々は愚かで荒しくて、威厳では服従させにくいから、計略を以って従わせるのが良い」と言って、木造りの荒しいけだものをたくさん作り、多くの戦船に分けて積んでその国へ行き、欺いて言う「君たちが降伏しなければ、この荒しい獣放すぞ」、そうしたら、その国人々が恐ろしがって来て降伏した。
高麗太祖十三年、其島人使白吉土豆獻方物。
毅宗十三年、審察使金柔立等回來告
島中有泰山、從山項向東行至海一萬餘歩、向西行一萬三千餘歩、向南行一萬五千餘歩、向北行八千餘歩、
有村落基址七所。
或有石佛像鐵鍾石塔。 多生柴胡蒿本石南草。
高麗太祖(太祖) 13年に、その島人々が白吉土豆に方物を献納するようにした.
毅宗13年に審察使、金柔立などが帰って来て告げるのを、
島の中大きい山がある。
山頂から洞方へ海に至る1万歩。西方へ行く1万3千歩。南に行く1万5千歩。北に行く8千歩。
里の敷地が 7ヶ所がある。
たまに石仏・像鐵鍾・石塔がある。柴胡・蒿本・石南草などがたくさん採れる。
我太祖時、聞流民逃入其島者甚多、再命三陟人金麟雨、爲按撫使、刷出空其地。
私たちの太祖時、遊離する民がその島で逃げて入って行く者が甚だしく多いと言うことを聞いて、三陟人金麟雨に再命して、安撫使にして人々を刷出してその地を留守にするようにした。
麟雨言 “土地沃饒、竹大如柱、鼠大如猫、桃核大於升。他物稱是。”
麟雨が言うには、「地が肥えている。竹の大きさが柱みたいであり、鼠の大きさが猫みたいで、桃が升のように大きい。皆品物がこれと同じだ。」
李朝世宗の「鬱陵島」認識
金麟雨の職名として「于山」が出てくるが、于山島では何の事件も起きなかった模様である。
1419-03-29 武陵島に潛居しようと謀議した者を杖一百にした。
1419-04-01 武陵島からの転出者が困窮しているので救援が必要だ。
1425-08-08 金麟雨を于山武陵等の按撫使にした。舞い戻った転出者を追って船を出した。
1425-10-20 于山茂陵等處按撫使の金麟雨が武陵島から20余人を連れ帰る。同行の官員40余人を失う。
1425-10-26 金麟雨を賞す。
1425-11-20 茂陵島の帰途に難破した者の慰霊祭を行う。
1425-12-28 漂流者10名が日本から帰国した。36人は溺死した。
1426-12-13 茂陵島から対馬に逃げて火藥秘術を教えないか心配だ。
1430-10-23 咸吉道の南海上に二峯如島あり
1433-07-22 昨年に茂陵島への使人が漂着したのは石州であった。
1436-06-19 武陵島・牛山は土沃多産だから移民してはどうか。
1437-02-08 武陵島が倭寇に占拠される懼れあり。
1438-04-21 曹敏が武陵島は土沃可居なので調査させた。
1438-07-15 曹敏が茂陵島で本郡人男女66人を逮捕した。
1438-07-15 茂陵島で曹敏が逮捕した人々に温情を与えよ。
1438-07-26 茂陵島はその険難さの故にお荷物である。
1438-11-25 茂陵島への逃入者を絞刑に処した。
1439-02-07 茂陵島への進入者を絞刑に処す。
.
日の丸大嫌い、竹島は韓国領!? 北教組
日の丸大嫌い、竹島は韓国領!?“北教組”トンデモ実態 2010年02月16日
竹島、信用力、国家戦略 - 北村隆司 2010年01月07日
【佐藤優の眼光紙背】竹島問題 2009年12月31日
.
2010年 竹島の日
2010年2月22日月曜日
李朝太宗の「鬱陵島」認識
1403-08-11 太宗 6卷, 3年
命出江陵道武陵島居民于陸地。 從監司之啓也。
于山島を含まない武陵島の居民を陸地に出すように命令した。
1407-03-16 太宗 13卷, 7年
對馬島守護宗貞茂, 遣平道全, 來獻土物, 發還俘虜。
貞茂請茂陵島欲率其衆落徙居,
上曰: “若許之, 則日本國王謂我爲招納叛人, 無乃生隙歟?”
南在對曰: “倭俗叛則必從他人, 習以爲常, 莫之能禁, 誰敢出此計乎?”
上曰: “在其境?, 常事也, 若越境而來, 則彼必有辭矣。”
対馬が茂陵島を欲しがったが、これを断った。
1412-04-15 太宗 23卷, 12年
命議政府議處流山國島人。
江原道觀察使報云:
“流山國島人白加勿等十二名, 求泊高城於羅津, 言曰:
‘予等生長武陵, 其島?人?十一, 男女共六十餘, 今移居本島。
是島自東至西自南至北, 皆二息, 周回八息。
無牛馬水田, 唯種豆一斗出二十石或三十石, 麥一石出五十餘石;
竹如大椽; 海錯果木皆在焉。’
竊慮此人等逃還, 姑分置于通州、高城、杆城。”
刷出命令は、武陵島に対してのものであったので、流山國島人を名乗る者が現れた。流山國島には60余人が住むと言う。
1416-09-02 太宗 32卷, 16年
以金麟雨爲武陵等處安撫使。
戸曹參判朴習啓:
“臣嘗爲江原道都觀察使, 聞
武陵島周回七息, 傍有小島, 其田可五十餘結。
所入之路, 纔通一人, 不可竝行。
昔有方之用者率十五家入居, 時或假倭爲寇。
知其島者, 在三陟, 請使之往見。”
上可之, 乃召三陟人前萬?金麟雨, 問武陵島事,
麟雨言: “三陟人李萬嘗往武陵而還, 詳知其島之事。”
?召李萬。
麟雨又啓: “
武陵島遙在海中, 人不相通, 故避軍役者, 或逃入焉。
若此島多接人, 則倭終必入寇, 因此而侵於江原道矣。”
上然之
以麟雨爲武陵等處安撫使, 以萬爲伴人, 給兵船二隻、抄工二名、引海二名、火?火藥及糧,
往其島, 諭其頭目人以來。 賜麟雨及萬衣笠靴。
金麟雨を「武陵等」の安撫使にした。
しかし、「武陵島」の説明は為されているが、「武陵等」の説明は為されていない。「武陵等」が何を指すのかこの時点では明らかではない。
1417-02-05 太宗 33卷, 17年
按撫使金麟雨還自于山島,
獻土産大竹、水牛皮、生苧、綿子、檢樸木等物, 且率居人三名以來。
其島戸凡十五口, 男女?八十六。
麟雨之往還也, 再逢颶風, 僅得其生。
「武陵等」按撫使の金麟雨が「于山島」から還ってきた。「于山島」には、男女86人が住むと報告した。
ここで、「武陵等」の「等」が「于山島」であったことが判明する。
しかし、「武陵等」按撫使の金麟雨が、「武陵島」についての報告を全くしないのが不思議だ。朝廷は「武陵島」の報告を聞きたいと考えないのも不思議だ。
1417-02-08 太宗 33卷, 17年
命右議政韓?敬、六曹、臺諫, 議刷出于山、武陵居人便否,
僉曰: “武陵居人, 勿令刷出, 給五穀與農器, 以安其業, 仍遣主帥撫之, 且定土貢可也。”
工曹判書?喜獨不可曰: “勿令安置, 依速刷出。”
上曰: “刷出之計是矣。
彼人等曾避役安居, 若定土貢, 有主帥, 則彼必惡之, 不可使之久留也。
宜以金麟雨仍爲安撫使, 還入于山、武陵等處, 率其居人出陸。”
仍賜衣笠及靴, 且賜于山人三名各衣一襲。
命江原道都觀察使, 給兵船二隻, 選揀道?水軍萬?千?中有能者, 與麟雨同往。
于山武陵から刷出することの便否を議論した。官員を送って納税させる案も出たが否決された。そして、金麟雨を再度派遣して刷出することが決まった。又、于山人3名には衣を与えた。
1403年の王命は、その適否を1417年に議論できる程度のものであった様だ。
1416年に「武陵等」であった目的の島が、1417年には「于山武陵等」に変っている。しかも。「等」であった「于山」が頭にきている。
兵船二隻で、刷出することが出来るのだろうか。83人もの多くの人を乗せられるとは思えない。
特別に、有能者を選抜して送らねばならない理由がない。
1417-08-06 太宗 34卷, 17年 倭寇 于山、武陵。
結局、金麟雨の再派遣は実施されなかったのだろう。
そうしている内に、于山武陵は倭に寇された。
金麟雨を「武陵等」の安撫使にして、半島の東に2島在る事が確認された。普通は、新たに発見した島を後に付けるが、本件では、理由は不明だが、新たに発見した島を頭に付け、「于山武陵等」の安撫使という職が設けられた。
この「于山・武陵」の2島は人が住める豊潤な島である。しかし、官吏を配し、税金を採るほどの島ではないが、多くの税金を使って刷出するに値する島であり、倭寇が出現する島である。
.
李朝太祖の「鬱陵島」認識
1392-07-30 太祖 1卷
都評議使司請前日敎書所載流放遐方者, 分徙 武陵、楸子島、濟州等處,
上曰:
“敎書?曰予?憫之, 今又分徙諸島, 是失信也。 且徙諸無人之地, 衣食何得? 必皆飢寒而死。
此輩雖居畿?, 更何爲謀?”
遂令分配諸州。
於是, 禹玄寶徙海陽, 李穡徙長興府, 偰長壽徙長?, 其餘皆徙沿邊州縣。
太祖の時代、鬱陵島からいかだを組んで半島に辿りつけるとは考えられなかった様です。
鬱陵島は、自然の監獄だったのです。
ただ、衣類は定期的に届けるつもりだったのでしょう。
高麗朝の「鬱陵島」認識
◎『高麗史』巻58、地理志3、蔚珍縣
欝陵島 在縣正東海中 新羅時稱于山國 一云武陵 一云羽陵 地方百里 智證王
十二年(ママ)來降 太祖十三年 其島人使白吉土豆 献方物 毅宗十一年 王聞
欝陵 地廣土肥 舊有州縣 可以居民 遣溟州道監倉 金柔立往視 柔立回奏云
島中有大山從山頂 向東行至海一萬余歩 向西行一萬三千余歩 向南行一萬五千余歩
向北八千余歩 有村落基址七所 有石佛鉄鍾石塔 多生柴胡蒿本石南草 然多岩石
民不可居 遂寢其議 一云于山武陵本二島 相距不遠 風日清明 則可望見
◎ 余地勝欄
◎ 万機要覧
.
新羅朝の「鬱陵島」認識
◎ 三国史記
于山国は溟州(現在の江原道江陵市)の正東にある海の島であり、別名を鬱陵島といい、周囲が百里(約40km)ある。
◎ 三国史記巻四
智證麻立干 十三年、夏六月、
于山國歸服、歳以土宜為貢、于山國、在溟州正東海島、
或名欝陵島、地方一百里、恃嶮不服、伊喰異斯夫、為何琵羅州軍主、
謂于山人愚悍、難以威来、可以計服、乃多造木偶師子、分載戦船、抵其國海岸、
誑告曰、汝若不服、則放此猛獣踏殺之、国人恐懼則降
◎ 三国遺事
三国遺事 画像
.
大東輿地図 1861
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2007/11/1861-daedong-yeojido-ulleungdo.html
1861 - Daedong Yeojido (大東輿地圖) - Ulleungdo Map
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2009/11/1861-daedong-yeojido-with-unique-index.html
1861 - "Dae Dongyeo Jido" (大東輿地圖) with Unique "Index Map"
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2009/11/daedong-yeojido-at-univ-of-wisconsin.html
"Daedong Yeojido" at Univ. of Wisconsin - Milwaukee
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2007/10/british-publication-china-pilot-3rd.html
British Publication "China Pilot," 3rd Edition (1861)
1861 - Daedong Yeojido (大東輿地圖) - Ulleungdo Map
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2009/11/1861-daedong-yeojido-with-unique-index.html
1861 - "Dae Dongyeo Jido" (大東輿地圖) with Unique "Index Map"
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2009/11/daedong-yeojido-at-univ-of-wisconsin.html
"Daedong Yeojido" at Univ. of Wisconsin - Milwaukee
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2007/10/british-publication-china-pilot-3rd.html
British Publication "China Pilot," 3rd Edition (1861)
2010年2月21日日曜日
倭・倭人関連の朝鮮文献
4世紀から6世紀にかけて、倭国は朝鮮の東海(沿岸から鬱陵島の間)を制していたと思われ、この渦中にある于山国が完全な独立を保っていたとは考えにくい。
倭国と于山国は、同盟して新羅を寇していたのではないだろうか。
500年頃から160年間、理由は不明だが、この寇が行われていません。この間に、于山国と伽耶と日本府が滅びています。
尚、万機要覧には「本于山國 新羅取之 後 恐導倭為寇 刷出」とあります。
広開土王碑文
広開土王碑文 (414年(碑文によれば甲寅年九月廿九日乙酉、9月29日 (旧暦))建立)
391年(辛卯(耒卯)年)「百残新羅舊是属民由来朝貢而倭以辛卯年来渡■破百残■■新羅以為臣民」
そもそも新羅・百残(百済の蔑称か?)は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に■を渡り百残・■■・新羅を破り、臣民となしてしまった。
399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平譲にでむいた。ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。
400年、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。
404年、倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた。
訳;井上秀雄『古代朝鮮』〈講談社学術文庫〉、2004年 ISBN 4-06-159678-0
三国史記 (新羅本紀) [編集]
紀元前50年 倭人達が兵を率いて辺境を侵そうとしたが、始祖に神徳があるということ聞いて、すぐに帰ってしまった。
紀元前20年 春二月に、瓠公を馬韓に派遣して、外交関係を結ぼうとした。馬韓王が瓠公に「辰・卞二韓は、わが属国であったのが、近年には貢物も送らない。大国につかえる礼が、これでいいのか」といった。これに対して瓠公は「わが国は二聖が国をたててから人心が安定し、天の時が和して豊作となり、倉庫は満ち、民が互に敬い譲るので辰韓の遺民から卞韓、楽浪、倭人にいたるまで恐れ、かつ、したわないものはありません。しかし、わが王は謙虚で、下臣を遣わして国交を結び交わそうとするは、過ぎたる礼というべきであります。それなのに、大王はかえって怒り、兵を似ておどかすのは、これ何の意味でありますか」といった。馬韓王はますます怒って瓠公を殺そうとしたが、左右の臣たちが諫めてやめさせ、許して帰した。これより先、中国人たちは秦国の乱に苦しみ、東方へ亡命してくる者が多かったが、かれらは馬韓の東に多く住み着いて、辰韓人たちと雑居していた。この時にかれらの数が多く、栄えたので、馬韓ではこれを忌み嫌って責めたものである。瓠公という人は、その族姓がつまびらかではないが、元は倭人で、はじめ瓠を腰につって海を渡って来たために瓠公と称した。
14年 倭人が兵船百余隻で海辺に侵入。
57年 4代王「脱解尼師今(一云吐解)立。時年六十二。姓昔。妃阿孝夫人。脱解本多婆那國所生。其國在倭國東北一千里」脱解は多婆那国で生まれ、その国は倭国東北一千里にあり。
59年 夏の五月に倭国と友好関係を結んで修交し、使者を派遣し合った。
73年 倭人が木出島を侵して来たので、王は角干羽鳥を派遣して、これを防がせたが、勝てずして羽鳥が戦死した。
121年 夏四月に倭人が東の辺境を攻めた。
123年 春三年に倭国と講和した。
158年 倭人が交際のために訪れた。
173年 倭の女王卑弥呼が使わした使者が訪れた。(「二十年夏五月。倭女王卑彌乎。遣使来聘」)
232年 夏四月に倭人が金城を包囲。
233年 五月 倭兵が東辺を攻めた。
249年 夏四月に倭人が舒弗邯、于老を殺した。
287年 夏四月に倭人が一礼部を襲う。
289年 夏五月に、倭兵が攻めてくるということを聞いて、戦船を修理し、鎧と武器を修理した。
292年 夏六月に倭兵が沙道城を攻め落とす。
294年 夏 倭兵が長峯城を攻めて来た。
295年 春 王が臣下に向かって「倭人が、しばしばわが城邑を侵して来るので、百姓が安じて生活することができない。私は百済と共に謀って、一時海を渡って行って、その国(倭)を討ちたいが、皆の意見はいかがか?」ときいた。これに対して、舒弗邯、弘権が「われわれは海戦に不慣れでございます。冒険的な遠征をすれば、不測の危険があることを恐れます。いわんや百済は偽りが多く、常にわが国を呑み込もうと野心をもっておりますから、かれらと共に謀ることは困難だと思います」と答えた。王はこれを聞いて「それもそうだ」といった。
300年 春正月に、倭国と使者を派遣し合った。
312年 春三月に、倭国の国王が使臣をつかわして、息子のために求婚したので、王は阿飡の急利の娘を倭国に送った。
344年 倭国が使者をつかわして、婚姻を請うたが、すでに以前に女子を嫁がせたことがあるので断った。
345年 二月に倭王が、書を送って国交を断ってきた。
346年 倭兵が風島に来て、進んで金城を包囲して攻めて来た。
364年 倭人は多数をたのんで、そのまま直進して来る所を伏兵が起ってその不意を討つと、倭人は大いに敗れて逃走した。
393年 倭人が来て金城を包囲し、5日も解かなかった。
402年 三月に倭国と通好して、奈勿王の子、未斯欣を人質として倭に送った。
405年 倭兵が明活城を攻める。
407年 春三月 倭人が東辺を侵し、夏六月にまた南辺を攻める。
418年 高句麗と倭国への人質が逃げ帰った。
431年 倭兵が、東の辺境に攻めて来て、明活城を包囲したが、功なくして退いた。
440年 倭人が、南の辺境に侵入。夏六月にまた東の辺境を攻める。
444年 夏四月に、倭兵が金城を十日包囲して、食料が尽きて帰った。
459年 夏四月に、倭人が兵船百余隻を以って東辺を襲い、月城を囲んで進撃したが、追撃してこれを破る。
462年 夏五月に、倭人が活開城を襲い破り、一千名を捕らえて連れ去った。
463年 倭人が歃良城(梁山)を攻めるも勝てずして去った。
476年 倭人が東辺を攻める。
477年 倭人が兵をあげて五道に侵入したが、ついに何の功もなく帰った。
482年 五月に倭人が辺境を攻める。
486年 夏四月に倭人が辺境を攻める。
500年 春三月 倭人が長峯鎮を攻め陥した。
-------------------------------------------
663年 倭国の水軍が来て、百済を助ける。
670年 十二月 倭国が国号を日本と改めた。自ら言うところでは、日の出る所に近いから、これをもって名としたとの事である。
698年 三月に日本国から使臣が来たので、王は崇礼殿で引見した。
703年 日本国から使臣が来たが、みんなで二百四名であった。
722年 日本の賊の路を遮断した。
731年 日本国の兵船三百隻が海を越えて、東辺を襲う。
742年 日本の国使が来たが、これを受け付けなかった。
753年 秋八月に日本国使が来た。高慢無礼と判断し、王は接見しなかった。
802年 冬十二月、均貞に大阿飡の官を授けて、仮の王子にして、日本国への人質にしようとしたが、均貞がこれを断った。
804年 夏五月 日本国が使臣を派遣して、黄金三百両を進上した。
806年 春三月 日本国使臣が来たので、王は朝元殿で引見した。
808年 春二月に日本国の使臣が来た。王は厚い礼で、これを待遇した。
864年 夏四月に日本国の使臣が来た。
879年 八月に日本国の使臣が来た。王はこれを朝元殿で引見した。
882年 夏四月に日本国王が使臣を派遣して、黄金三百両と明珠十箇を進上した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E3%83%BB%E5%80%AD%E4%BA%BA%E9%96%A2%E9%80%A3%E3%81%AE%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E6%96%87%E7%8C%AE
倭国と于山国は、同盟して新羅を寇していたのではないだろうか。
500年頃から160年間、理由は不明だが、この寇が行われていません。この間に、于山国と伽耶と日本府が滅びています。
尚、万機要覧には「本于山國 新羅取之 後 恐導倭為寇 刷出」とあります。
広開土王碑文
広開土王碑文 (414年(碑文によれば甲寅年九月廿九日乙酉、9月29日 (旧暦))建立)
391年(辛卯(耒卯)年)「百残新羅舊是属民由来朝貢而倭以辛卯年来渡■破百残■■新羅以為臣民」
そもそも新羅・百残(百済の蔑称か?)は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に■を渡り百残・■■・新羅を破り、臣民となしてしまった。
399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平譲にでむいた。ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。
400年、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。
404年、倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた。
訳;井上秀雄『古代朝鮮』〈講談社学術文庫〉、2004年 ISBN 4-06-159678-0
三国史記 (新羅本紀) [編集]
紀元前50年 倭人達が兵を率いて辺境を侵そうとしたが、始祖に神徳があるということ聞いて、すぐに帰ってしまった。
紀元前20年 春二月に、瓠公を馬韓に派遣して、外交関係を結ぼうとした。馬韓王が瓠公に「辰・卞二韓は、わが属国であったのが、近年には貢物も送らない。大国につかえる礼が、これでいいのか」といった。これに対して瓠公は「わが国は二聖が国をたててから人心が安定し、天の時が和して豊作となり、倉庫は満ち、民が互に敬い譲るので辰韓の遺民から卞韓、楽浪、倭人にいたるまで恐れ、かつ、したわないものはありません。しかし、わが王は謙虚で、下臣を遣わして国交を結び交わそうとするは、過ぎたる礼というべきであります。それなのに、大王はかえって怒り、兵を似ておどかすのは、これ何の意味でありますか」といった。馬韓王はますます怒って瓠公を殺そうとしたが、左右の臣たちが諫めてやめさせ、許して帰した。これより先、中国人たちは秦国の乱に苦しみ、東方へ亡命してくる者が多かったが、かれらは馬韓の東に多く住み着いて、辰韓人たちと雑居していた。この時にかれらの数が多く、栄えたので、馬韓ではこれを忌み嫌って責めたものである。瓠公という人は、その族姓がつまびらかではないが、元は倭人で、はじめ瓠を腰につって海を渡って来たために瓠公と称した。
14年 倭人が兵船百余隻で海辺に侵入。
57年 4代王「脱解尼師今(一云吐解)立。時年六十二。姓昔。妃阿孝夫人。脱解本多婆那國所生。其國在倭國東北一千里」脱解は多婆那国で生まれ、その国は倭国東北一千里にあり。
59年 夏の五月に倭国と友好関係を結んで修交し、使者を派遣し合った。
73年 倭人が木出島を侵して来たので、王は角干羽鳥を派遣して、これを防がせたが、勝てずして羽鳥が戦死した。
121年 夏四月に倭人が東の辺境を攻めた。
123年 春三年に倭国と講和した。
158年 倭人が交際のために訪れた。
173年 倭の女王卑弥呼が使わした使者が訪れた。(「二十年夏五月。倭女王卑彌乎。遣使来聘」)
232年 夏四月に倭人が金城を包囲。
233年 五月 倭兵が東辺を攻めた。
249年 夏四月に倭人が舒弗邯、于老を殺した。
287年 夏四月に倭人が一礼部を襲う。
289年 夏五月に、倭兵が攻めてくるということを聞いて、戦船を修理し、鎧と武器を修理した。
292年 夏六月に倭兵が沙道城を攻め落とす。
294年 夏 倭兵が長峯城を攻めて来た。
295年 春 王が臣下に向かって「倭人が、しばしばわが城邑を侵して来るので、百姓が安じて生活することができない。私は百済と共に謀って、一時海を渡って行って、その国(倭)を討ちたいが、皆の意見はいかがか?」ときいた。これに対して、舒弗邯、弘権が「われわれは海戦に不慣れでございます。冒険的な遠征をすれば、不測の危険があることを恐れます。いわんや百済は偽りが多く、常にわが国を呑み込もうと野心をもっておりますから、かれらと共に謀ることは困難だと思います」と答えた。王はこれを聞いて「それもそうだ」といった。
300年 春正月に、倭国と使者を派遣し合った。
312年 春三月に、倭国の国王が使臣をつかわして、息子のために求婚したので、王は阿飡の急利の娘を倭国に送った。
344年 倭国が使者をつかわして、婚姻を請うたが、すでに以前に女子を嫁がせたことがあるので断った。
345年 二月に倭王が、書を送って国交を断ってきた。
346年 倭兵が風島に来て、進んで金城を包囲して攻めて来た。
364年 倭人は多数をたのんで、そのまま直進して来る所を伏兵が起ってその不意を討つと、倭人は大いに敗れて逃走した。
393年 倭人が来て金城を包囲し、5日も解かなかった。
402年 三月に倭国と通好して、奈勿王の子、未斯欣を人質として倭に送った。
405年 倭兵が明活城を攻める。
407年 春三月 倭人が東辺を侵し、夏六月にまた南辺を攻める。
418年 高句麗と倭国への人質が逃げ帰った。
431年 倭兵が、東の辺境に攻めて来て、明活城を包囲したが、功なくして退いた。
440年 倭人が、南の辺境に侵入。夏六月にまた東の辺境を攻める。
444年 夏四月に、倭兵が金城を十日包囲して、食料が尽きて帰った。
459年 夏四月に、倭人が兵船百余隻を以って東辺を襲い、月城を囲んで進撃したが、追撃してこれを破る。
462年 夏五月に、倭人が活開城を襲い破り、一千名を捕らえて連れ去った。
463年 倭人が歃良城(梁山)を攻めるも勝てずして去った。
476年 倭人が東辺を攻める。
477年 倭人が兵をあげて五道に侵入したが、ついに何の功もなく帰った。
482年 五月に倭人が辺境を攻める。
486年 夏四月に倭人が辺境を攻める。
500年 春三月 倭人が長峯鎮を攻め陥した。
-------------------------------------------
663年 倭国の水軍が来て、百済を助ける。
670年 十二月 倭国が国号を日本と改めた。自ら言うところでは、日の出る所に近いから、これをもって名としたとの事である。
698年 三月に日本国から使臣が来たので、王は崇礼殿で引見した。
703年 日本国から使臣が来たが、みんなで二百四名であった。
722年 日本の賊の路を遮断した。
731年 日本国の兵船三百隻が海を越えて、東辺を襲う。
742年 日本の国使が来たが、これを受け付けなかった。
753年 秋八月に日本国使が来た。高慢無礼と判断し、王は接見しなかった。
802年 冬十二月、均貞に大阿飡の官を授けて、仮の王子にして、日本国への人質にしようとしたが、均貞がこれを断った。
804年 夏五月 日本国が使臣を派遣して、黄金三百両を進上した。
806年 春三月 日本国使臣が来たので、王は朝元殿で引見した。
808年 春二月に日本国の使臣が来た。王は厚い礼で、これを待遇した。
864年 夏四月に日本国の使臣が来た。
879年 八月に日本国の使臣が来た。王はこれを朝元殿で引見した。
882年 夏四月に日本国王が使臣を派遣して、黄金三百両と明珠十箇を進上した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E3%83%BB%E5%80%AD%E4%BA%BA%E9%96%A2%E9%80%A3%E3%81%AE%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E6%96%87%E7%8C%AE
其東又有于山島亦広潤
其東又有于山島亦広潤
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2007/12/1861.html
英宗十一年 江原監司趙最壽啓言 盃(鬱)陵島地廣土沃有人居田他 而其西又有于山島 亦廣闊云 則所謂西字與此各之在東相佐
.「于山島=竹嶼」を文献で初めて実証
山陰中央新報、2008.1.19
日韓両国が領有権を主張する竹島(韓国名・独島)をめぐり、韓国側が竹島の古い名称
と主張する于山島が、現在の韓国・ 鬱陵島の北東に隣接する竹嶼(ちくしょ)であるこ
とを示す記述が、朝鮮時代の文献にあることが分かった。島根県の竹島問題研究会が古地
図を基に指摘する 「于山島は竹島ではなく竹嶼」との主張が、文献で実証されたのは初
めて。・・・・・
日省録の鬱陵島周辺を調査した役人による一八〇七年の報告書の中に、鬱陵島の北に于
山島があり、周囲は二、三里(韓国里で八百-千二百メートル)、との内容を示す「北有
于山島周回為二三里許」の記述があった。
【半月城さんコメント】 日省録に于山島が欝陵島の北にあると記されているのなら、著者はそのよ
うな認識であったと理解すべきで、これを無理に欝陵島の「東」にあるチュクト(韓国
名:竹島)に関連づけるのは強引すぎる。19世紀、于山島を欝陵島の北に描いた地図に
は江原道『八路地圖』などがある。
http://www.han.org/a/half-moon/hm131.html
江原監司の金履喬が、順天等三村の守令が鬱陵島への密航船に警告しなかった罪を諭した事を報告
四月初七日に本島に到着し宿泊しました。島の形状をあまねく調査したところ、左に黄土窟右に屏風石があり、黄土仇味より中峯まで三十里位でした。そして山々がそびえ立ち清らかで冷たい泉の水のある所に人家の跡と田や畑として耕作可能な土地があり四十余りの石落となっていました(石落、意味不明)。傍らには香木亭があり香木が削って置いてあり、又捕らえたアシカの皮も置いてありましたがこれは密航船のしわざでした。北に向かって十里余りの海中に中央に舟の通れる穴のある石が聳え立っていて其の名をを孔巖といいます。そして錐山巖に向かっていきました。この巖はきりが立っているような形をしていました。南には天底仇味があり、谷の入り口は奥深く十里余りありました。北には于山島があり一周二三里(800m~1200m)ほどの大きさでした。南に行き着いた所に都庄仇味があり谷の入り口から奥のほうまで立ち入ってみると竹林がありましたが密航船によって乱雑に叩き切られていました。(現代語訳:yabutarou)
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2008_01_01_archive.html
靑邱圖 国立図書館
2010年2月19日金曜日
登録:
投稿 (Atom)
ブログ アーカイブ
-
▼
2010
(54)
-
▼
2月
(52)
- 竹島問題で韓国側の論拠崩す公文書発見
- 韓国団体、竹島の日、糾弾
- 万機要覧 元禄交渉の決着
- 万機要覧 安龍福
- 万機要覧 元禄の日朝交渉
- 万機要覧 慶長の日朝交渉
- 万機要覧 于山則倭所謂松島也
- 万機要覧 朝鮮前期
- 万機要覧 高麗朝
- 万機要覧 新羅朝
- 万機要覧 可之島
- 万機要覧 地理
- 新増東国輿地勝覧
- 李氏成宗の「三峰島」認識
- 李氏世宗の「蓼島」認識
- 世宗実録 地理志
- 李朝世宗の「鬱陵島」認識
- 日の丸大嫌い、竹島は韓国領!? 北教組
- 2010年 竹島の日
- 李朝太宗の「鬱陵島」認識
- 李朝太祖の「鬱陵島」認識
- 高麗朝の「鬱陵島」認識
- 三国遺事 画像
- 新羅朝の「鬱陵島」認識
- 大東輿地図 1861
- 倭・倭人関連の朝鮮文献
- 其東又有于山島亦広潤
- 靑邱圖 国立図書館
- 『地乘』江原道
- 「海東地図」 1750's
- 「廣與図」 1737-76年
- 「輿地圖」 1736-67年
- 「八道與地圖」 18世紀中旬
- 「青砥圖」 1834
- 朴昌錫「鬱陵島圖形」 1711
- 東京山川 八道地圖 1800年代以前(推定)
- 鬱陵島地近倭境
- 朝鮮の古地図が示す勅令41号の範囲
- 鬱陵島は横長か縦長か
- 勅令41号の石島はどこか
- 禹用鼎 鬱陵島視察
- 李乾夏 請議書
- 勅令41号
- 鬱島郡守 沈興沢報告書
- 鬱陵報告内部
- 参政大臣 指令第3号
- 無変不有 (変なきに有らず)
- ★本邦初公開?大韓帝国勅令41号の石島は独島ではない証拠
- 金教授 "1905年新聞報道" で朝鮮領土認定
- 小さな針を棒大に現す
- 韓国のacademicな日本史研究
- 2月分
-
▼
2月
(52)