2010年2月12日金曜日

★本邦初公開?大韓帝国勅令41号の石島は独島ではない証拠

皇城新聞1906年7月13日

鬱島郡の配置顛末



統監府から内部に公照された江原道三陟郡管下に所在する鬱陵島の所属島嶼と郡廳設始月を示明せよとの故に答酬され、光武二年五月二十日に鬱陵島統監として設證され、光武四年十月二十五日に政府会議を経由して郡守を配置したが、郡廳は台霞洞に在し、該郡所管島はチュク島と石島である。東西が六十里である。南北が四十里なので、合せて二百余里だという。


出展:杉野洋明さんのプログ
http://ameblo.jp/nidanosuke/entry-10059918345.html
http://ameblo.jp/nidanosuke/entry-10109934218.html



 「統監府から内部に公照された」きっかけは、「鬱陵報告内部」という皇城新聞の記事でしょう。しかし、そのアクションが同時に為されたか否かは不明です。

 韓国政府に公照する前に、日本がした行為の実態と意味を知る必要がありますから、事の顛末が明らかになった後に公照すると思います。これに、どの位の時間が必要かが問題です。

 部下を東京に派遣して問合せると、島根県も訪れる必要がありますから、1ヶ月が必要と考えられ、事の顛末が判明するのは5月末になります。この結果を得てから公照した場合、5月20日の指令3号には影響を与えなかったことになります。6月中旬に公照し、7月13日の直前に回答を得たとすれば、日程的には、最も合理的な推論となります。

 当時は、日露戦争遂行の為に設置された電信網があったので、これを利用して東京と通信することが可能であったかも知れません。この場合、数日で、ことの顛末が判明したかも知れません。
 又、朝鮮統監行為は、微妙な感覚の均衡が必要ですから、東京から多くの情報が伝達され、又、山陰新聞を読んでいたかも知れません。この場合、数日で、ことの顛末が判明したかも知れません。
 もし、皇城新聞の記事から遅くない時期に韓国政府に公照したのであれば、7月13日の記事内容を意識して5月20日に指令3号を発したと考えられます。



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2010年2月10日水曜日

金教授 "1905年新聞報道" で朝鮮領土認定

http://news.mk.co.kr/newsRead.php?sc=30000022&cm=%EC%82%AC%ED%9A%8C%20%EC%A3%BC%EC%9A%94%EA%B8%B0%EC%82%AC&year=2010&no=70064&selFlag=&relatedcode=&wonNo=&sID=504




"日製, 新聞通じて独島侵奪自国内広報"


金文起を釜山外大教授 "1905年新聞報道で確認"
"独島を新たに発見島で紹介..朝鮮領土認定証拠"


20世紀初め日本が独島をわがまま自分たちの領土で編入する出るこれを国民に知らせようとまるで新しい島が発見されたように自国新聞に報道まで一証拠が出た. 釜山外国語大金文起を(日本史.韓日関係詞専攻) 教授は 9日 "最近日本島根県図書館で日本政府が独島を日本領土にするという事実を新聞を通じて国民に知らせようと思ったという証拠を見つけた"と明らかにした.
金教授が日本で確認した 1905年 2月24日付け死因(山陰)新聞は島根県オキ(隠岐)島の部属島で新たにセングギンソム(新島)である竹島(竹島.独島の日本式名称)の位置と地形, 面積などを詳しく報道した.

'オキの新しい島(新島)'と言う題目で報道された該当の新聞記事は北緯 37度 9分 30秒, 東京 131度 55分位置にオキソムで西北方へ 85里距離にある各 15錠(町.日本の面積単位)の 2個である島を竹島と呼ぶ, オキソムの所管で決めるということを主要内容にする.

また明治(明治) 政府が島根県に降りた竹島関連官報(官報)に引き続き 9日ぶりに出たこの記事は竹島周りに小さな島がたくさん散らばるあるお腹が停泊しやすくて, 周辺に樹木がないというなど当時独島周辺環境に対する説明も一部付け加えた.

金教授は当時日本政府が独島を勝手に日本領土で編入したことを官報(官報)を通じて接することはできた当時指導層以外の他の自国民たちにも知らせようと一般人たちが接しやすい新聞を通じて報道をしたことに分析した.

" 日製, 新聞通じて独島侵奪自国内広報" (大邱=連合ニュース) 李剛である記者 = 釜山外国語大金文起を(日本史.韓日関係詞専攻) 教授が島根県図書館でバルギョした 1905年 2月24日付け死因(山陰)新聞. この新聞は島根県オキ(隠岐)島の部属島で新たにセングギンソム(新島)である竹島(竹島.独島の日本式名称)の位置と地形, 面積などを詳しく報道した.


金教授は "露日戦争を前後して独島をこの頃に利用しようと思った日本政府が自国民たちに 'この前にはなかった' 島が新しくできたように知らせようと新聞まで動員したということが独島がその以前には朝鮮の領土だったということを認める証拠だ"と言った.

leeki@yna.co.kr

(大邱=連合ニュース) 李剛である記者

<著作権者(c)年間合ニュース. 無断転載-灰梨砲金地.>

2010.02.09 11:20:46 入力

2010年2月7日日曜日

小さな針を棒大に現す



竹島考証上の4頁に次のとおりです。

 竹島は●無人の荒島にして、70余年間我人民の海利を壇せしも、元禄中往復の後其の鬱陵島たるを知り、之を彼に還したるを以って、今や彼の国の古史に就き、其の大略を掲げ、上世韓地の歴属たりし時の状を知らしむ。
 東国興地勝照覧巻首の八道総図中、江原道の海中に2島あり、西を于山と云い東を鬱陵と云う。●我所謂松島竹島の2島なるか。
 興地勝覧の説に拠れば、鬱陵島在江原道一名武陵 一名羽陵 在蔚珍県正東 三峯及業掌空 南峯梢卑 風日清則 峯頭樹木 及山根沙渚 歴々可見 風便則二日可到


 私の意訳は次のとおりです。

 元禄期に、日朝交渉があり、日本名「竹島」・朝鮮名「鬱陵島」が1島2名であると確認し、之を朝鮮に還した。今、該島への版図外指令を受け、該島がダジュレー島であるか、それともアルゴノート島であるかの確認が急がれている。
 そこで、八道総図を見るに、于山が西に、鬱陵が東に描かれている。これは、于山島=アルゴノート島(竹島)と捉え、鬱陵島=ダジュレー島(松島)と捉えるべきなのであろうか。
 又、興地勝覧を見るに、「鬱陵島・・・風日清則峯頭樹木及山根沙渚歴々可見」と記載されている。半島とダジュレー島の距離を考えれば、半島で日常生活を送っている者がダジュレー島の「峯頭樹木」を見ることは出来ない。半島の高地に登れば「峯頭樹木」を見る事はできようが、「山根沙渚」を見ることはできないだろう。すると、「鬱陵島=ダジュレー島」の説は否定せざるを得ない。
 更に、磯竹島略図を見ると、福浦竹島間は120里であり、竹島半島間は50里と記載されている。これは、「竹島=アルゴノート島」の説に合致するものと考えられる。
 しかるに、今般、アルゴノート島は実在しない島であるとの情報が流れている。

 現在、明治政府が求められているのは、速やかなるアルゴノート島の存否確認であり、元禄日朝交渉の対象とした島がダジュレー島であることの確認である。その後にダジュレー島に対する領有方針を決めねばならない。

 尚、田辺太一が、松島は鬱陵島であり、松島は于山島であり、この松島に何かを加えると蔚陵島になる等と意味不明の発言をしているが、無視すべきである。

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2010年2月5日金曜日

韓国のacademicな日本史研究

dokdo-takeshima.com 様。
私は、英語が読めません。概略、次の内容を述べられていると想像します。

> 韓国でのacademicな日本史研究において、
> 日本は江戸時代に明らかにdokdoを韓国に譲りました。
> それは、例えば、次のURLで証明出来ます
> http://www.dokdo-takeshima.com/wordpress/wp-content/images/trespass-map.jpg












韓国におけるacedemic(not=academic)な研究は、
原図を、自分の主張に都合の良い様に加工して、
読者の誤認を誘うことも含まれるのでしょうか。

dokdo-takeshima.com様は、
右図と白黒の左図を手に入れられた後、
左図に赤色のペイントを施しました。
この赤色ペイントの時、dokdo-takeshima.com様は謎の行為をされました。
それは、右図が赤色ペイントしている全ての場所から、
恣意的選択をして左図に赤色ペイントされました。
この為、対馬・下関・萩・江崎が白黒のまま残りました。

dokdo-takeshima.com様は、どうして、
読者に誤解を与えるような加工をするのでしょうか。


八右衛門の地図を比較する


2010年1月20日水曜日

謎の勅令41号

勅令41号には、多くの謎があります。



◎ 65年間主張されなかった勅令41号根拠説

 勅令41の石島が独島であるとの主張は、発布されてから65年間為されませんでした。鬱島郡守の沈興沢が「独島が日本領になった」と騒いだ時も、日韓併合時代の独立運動家達も、占領軍が竹島を日本行政区域から外した時にも、韓国は勅令41号を根拠とした主張をしませんでした。
 韓国政府は、公式に、勅令41号を根拠とした主張をしたことはないのです。それは、日韓基本条約が成立した直後から、民間の学者が主張しているに過ぎません。



◎ 朝鮮の古地図が示す勅令41号の範囲

 勅令41号の内部大臣がした請議書に、鬱島郡守の管轄範囲が「縦が80里ほど、橫は50里」と記されています。
 仮に、この数字が鬱島郡守の管轄範囲を示さないとしても、立証責任を負う韓国は、その立証の機会を失ったことになります。鬱島郡守が独島を管轄したというのは、空論に過ぎないのです。



◎ 禹用鼎 鬱陵島視察



◎ 李乾夏 請議書



◎ 勅令41号



◎ 鬱島郡守 沈興沢報告書

 鬱島郡守の沈興沢は「独島が日本領になった」と騒ぎました。
 しかし、不思議なことに、「竹島が日本領になった」と告げた隠岐島司に対し、「独島は韓国領だ」と宣言しませんでした。これは、郡守に昇格した理由である「外国人が来て交易し、交際上のことも有り、島監と称するのでは行政上の障害もあるため、鬱陵島を鬱島と改称し島監を郡守に改正する。」に反する行為です。
 又、「1500年の間、韓国の東限を守ってきた美しい島」が奪われたのに、その報告が江原道に届くのに1ヶ月を要しています。



◎ 鬱陵報告内部

 これは、皇城新聞5月1日の記事と思われます。
 当時の韓国人は、西洋的領土観を有していませんから、地方官僚が「自国領だ」と言えば、それは一応自国領であるとの認識を持ったと推定できます。
 しかし、次の条件が充足される場合に限ると思います。
   外洋百余里に島が在ること。
   日本官員が、録去したデータに独島のデータが含まれていること。
   郡守が日本官員に「独島は韓国領である」と宣言したこと。
   郡守が即座に、ソウルにこの事を報告しようとしたこと。



◎ 参政大臣 指令第3号

 5月20日、参政大臣は「独島領地之説は全て無根に属す」の命令を発しました。
 しかし、この意味を判断することは難しいです。
 参政大臣は、その職務権限から、日本の意向を知らずに、「独島(日本)領地之説は全て無根に属す」との判断をすることは出来ません。すると、「独島(韓国)領地之説は全て無根に属す」との判断であったと解されます。



◎ 無変不有 (変なきに有らず)

 この記事に対する解釈は多くありますが、私は次の解を採ります。
 「独島(韓国)領地之説は全て無根に属す」ので、何事も起こらなかったのと同じと考えるのは間違いである。それは、郡守が地界戸口を録し去られるのは「容或無怪」であり、内務大臣が「独島を日本属地と云うは必無其理」と根拠の無いことを発言することにある。即ち、我が韓国は国中が弛緩して亡国の道を歩み始めたのだ。



◎ ★本邦初公開?大韓帝国勅令41号の石島は独島ではない証拠

 「統監府から内部に公照された」きっかけは、「鬱陵報告内部」という皇城新聞の記事でしょう。
 これは、5月1日の記事ですから、如何なる手続きを経て、7月13日の記事になったのでしょうか。


◎ 鬱陵島は横長か縦長か
◎ 勅令41号の石島はどこか




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